いったん断念された古墳保存
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
「高尾山古墳」の記事における「いったん断念された古墳保存」の解説
高尾山古墳は2005年(平成17年)7月12日と13日に行われた、都市計画道路沼津南一色線の建設に伴う第1次試掘調査の結果、古墳である可能性が高いとされ、その後、2007年(平成19年)7月に第2次試掘調査、2008年(平成20年)度、2009年(平成21年)度には本調査が実施された。 都市計画道路沼津南一色線は1934年(昭和9年)に計画された片端西高島線がその原型である。戦後、沼津駅付近から西熊堂を結ぶ道路、沼津金岡線として1946年(昭和21年)10月に都市計画決定された。その後、1961年(昭和36年)7月には終点が沼津市岡宮まで延長された。岡宮まで計画が延長された後の1961年12月末から1964年2月にかけて建設工事が行われた東海道新幹線の沼津工区の路盤工事では、この都市計画道路の計画に基づき、道路と立体交差できるように橋げたの位置を調整し、また橋げたの幅も広くとった。1974年(昭和49年)には終点が長泉町南一色となり、名称も沼津南一色線と変更された。 沼津南一色線は東側は国道246号に繋がり、裾野市や長泉町方面と沼津市中心部を結ぶ都市間交通としての道路、国道246号と国道1号を結ぶ広域道路、そして沼津市の中心部と東名高速道路の沼津インターチェンジを結ぶという役割を担い、幅員25メートル、4車線の幹線道路として計画が進められている。沼津市としては沼津南一色線を都市の骨格を形成する重要な路線と位置付けている。また高尾山古墳周辺の道路は慢性的な交通渋滞に悩まされており、排気ガスによる生活環境の悪化が懸念され、交通事故も多発し、小中学校への通学にも支障をきたしているなど、市民生活に悪影響が起きていた。沼津南一色線の開通によってこのような交通問題の軽減も期待されていた。高尾山古墳はこの沼津南一色線の道路建設予定地にある。 1996年(平成8年)、高尾山古墳が工事区間に含まれる沼津南一色線事業中区間は事業認可され、建設が着手された。2005年(平成17年)度には道路工事が開始され、同年度までに高尾山古墳周辺の土地買収も進行し、6月には沼津市建設部街路課から教育委員会文化振興課宛に、辻畑古墳(高尾山古墳)の扱いについて照会があった。道路予定地には熊野神社、高尾山穂見神社があって、道路建設のためにはどうしても神社の移転が必要となり、それとともに高尾山穂見神社の下にあるとされていた辻畑古墳が問題となったのである。結局、2005年(平成17年)と2007年(平成19年)に試掘調査が行われることになった。 道路建設と古墳保存との問題は、早くも試掘調査後に起きていた。2009年(平成19年)9月、沼津市の道路建設課長宛の文章の中で、辻畑古墳は前方後方墳であり、静岡県下でも最古級の貴重な古墳であるので、取り扱いについて教育委員会(文化振興課)と協議するよう求めた。しかし検討の結果、前述のようにあらかじめ道路の立体交差を見越して新幹線の橋脚の幅を広げてあるため、沼津南一色線はどうしてもそこを通さざるを得ない。新幹線から高尾山古墳までわずか180メートルしか無く、また沼津南一色線が国道1号と合流する計画である江原公園交差点までも古墳から120メートルと短い。そのため道路を古墳を避けるようなカーブにすると急カーブとなり、主要幹線道路として計画されている沼津南一色線の建設条件に反してしまう。同様にトンネル、高架で古墳を避けようとしても道路が急勾配となるため、やはり規定に反してしまうことが明らかとなった。その上、これまでの道路建設や用地買収、住宅移転の経緯も考慮すると高尾山古墳の保存は困難であり、記録保存とする方針となった。 2008年(平成20年)度、2009年(平成21年)度の本調査の結果、更に古墳の重要性が明らかとなった。2009年(平成21年)9月に行われた現地説明会は1000人以上の人が集まる盛況となり、説明会の前後には古墳そのものばかりではなく、保存問題についての報道も相次いだ。そのような中で沼津市は9月半ばに学術的評価が定まるまで現状保存をするという方針を決め、墳丘部の掘り下げ調査は中止された。この時点で沼津市側は高尾山古墳を現状のまま保存するか、古墳本体の保存は断念して記録保存を行うのか、古墳の学術的評価を見て決めるというスタンスを示していた。 2011年(平成23年)度、高尾山古墳の発掘調査報告書が刊行された。同じく2011年(平成23年)度からは沼津市において高尾山古墳についての庁内検討会が設けられ、古墳の保存方法などについての検討が進められた。そのような中で、日本考古学協会では2012年(平成24年)11月に高尾山古墳の保存を求める要望書を提出した。要望書ではまず高尾山古墳の学術的重要性を説明し、古墳が道路工事によって失なわれることは沼津市民のみならず日本国民にとって大きな損失であるとして、国民共有の財産として保存を求めた。また同年、静岡県考古学会も高尾山古墳の保存についての要望書を提出している。一方、地元の岡宮自治会は、早期の道路完成を求める要望書を繰り返し提出していた。 沼津市としてはやはり高尾山古墳の保存は困難であるとの結論となった。前述のように古墳を避けて沼津南一色線を建設すること自体高いハードルがある上に、高尾山古墳の周辺は市街化が進んでいた。これまで重要な遺跡を避けるために道路計画を変更した事例は、高尾山古墳とは対照的な市街化が進んでおらず交通量も比較的少ない地域がほとんどであった。高尾山古墳の場合、周囲の市街化が進んでいるので古墳保存のために新たに立ち退きを迫られる事態を招く可能性が高く、またどうしても道路の交通量も多くなってしまうため、道路の規格も高いものが要求されることになる。結局、まず道路を古墳を迂回させる方法や、トンネル、高架も条件的に道路建設が不可能であるとされた。墳丘の一部を保存するために迂回する方法も、多くの土地の追加買収が必要となってしまい、現実的ではないとされた。また古墳の東側に道路を建設する場合、高尾山古墳の墳丘から移転して、2009年(平成21年)9月には遷座祭も終えていた熊野神社、高尾山穂見神社がもう一回移転を迫られてしまうことも問題となった。そこで高尾山古墳は記録保存とし、沼津南一色線の歩道部分の勾配を調整することによって古墳東側の周溝の一部を残す案を固めた。 2014年(平成26年)12月、沼津市は静岡県教育委員会とともに、文化庁に古墳東側の周溝の一部を残す案について説明した。文化庁側からは沼津市が示した案を了承するとともに、引き続き検討をしていくように指示した。2015年(平成27年)1月には、沼津市は沼津南一色線の建設を進めるために発掘調査を行う旨の通知を静岡県教育委員会に提出した。3月31日、静岡県教育委員会は古墳を可能な限り残すように引き続き検討することと、古墳の価値について市民に周知していくことなどの条件付きで沼津市の通知を許可した。沼津市としては高尾山古墳の実物3分の1程度の復元施設の設置や、出土品や古墳築造当時の様子をデジタル技術で体感できるような展示をすることを検討し、更に墳丘西側の道路建設予定地と重ならない部分について、保存の可能性を検討していくことにした。 2015年(平成27年)5月25日、沼津市議会文教消防委員会の席で市教育委員会は、高尾山古墳の保存を断念して沼津南一色線の建設を進める方針を明らかにし、道路建設に先立って高尾山古墳を2年間の予定で発掘を行うとした。発掘は古墳の墳丘を少しずつ剥ぎ取りながら進められる予定とされ、沼津市教育委員会としてはこれまで高尾山古墳のような出現期の古墳の解体調査が実施された例はほとんど無く、また解体調査を通じて古墳築造方法についての検証が可能になるとした。また沼津市側は古墳解体の決定公表に際して、沼津市民の中から古墳保存を求める意見が見られないとの認識を示した。
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