移転の経緯
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「近畿大学工業高等専門学校」の記事における「移転の経緯」の解説
熊野市にあった当時は地元通学生より県外各地から入学または編入学する学生が多く、和親寮、青葉寮、清和寮、淡交寮、景雲寮という5つの学生寮を持っていたが、やがて周辺地域の人口減少もあって定員割れが続くようになり、約130億円の債務を抱えることになった。このため2009年(平成21年)6月、設置母体の近畿大学は、遅くとも2015年3月までに熊野市から撤退することを表明した。移転先の候補地は同県名張市の皇學館大学(2010年(平成22年度)末で撤退)跡地と、グループの近大姫路大学がある兵庫県姫路市が検討されていたが、2010年(平成22年)1月の理事会において、名張市と移転交渉することを決定。同年5月には移転合意書、10月には2011年(平成23年)4月開設に向けた誘致協定書を名張市と締結した。 2011年(平成23年)に名張市に移転。現在の校舎は1998年(平成10年)から2011年(平成23年)3月まで皇學館大学社会福祉学部の校舎として利用されていたもので、移転先の名張市においても学生寮が設けられた(百合ヶ丘寮、朝日町寮)。尚、百合ケ丘寮が1年から3年の学生を収容し、朝日町寮が4.5年の学生を収容する。 朝日町寮は、提携寮として改良されたが殆ど利用されておらず大半の学生は下宿を探すかアパートを借りたりして生活している。
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移転の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:06 UTC 版)
田辺市の行政機能は田辺市本庁舎(4庁舎、延床面積約10,000 m2)と市民総合センター(延床面積約8,000 m2)の5庁舎に別れており、各庁舎とも築48年を超え現在の耐震基準を満たしておらず、また近年中の発生が予想される南海トラフ巨大地震においては、津波による庁舎の浸水(3 m - 5 m)が予想されている。これらの事から、2016年(平成28年)9月に田辺市は「津波・洪水の想定浸水域外で、かつ、中心市街地から近い場所に、両庁舎の機能を統合した新庁舎を、早期に整備する」と、市役所庁舎の移転および統合の方針を決定した。 移転先として愛宕山、宝来、東山(オーシティ田辺敷地)の3か所が提案され、主に交通アクセスと周辺交通の安全性確保の観点から、2017年(平成29年)3月に東山が最適地であるとの調査結果を公表し、2018年(平成30年)8月に市役所庁舎を同地に移転させると決定した。総工費は約120億円。2024年(令和6年)中に開庁する予定。 移転先の用地(約23,000 m2)を株式会社オークワから約10億5,000万円(解体費別)で取得すると発表され、オーシティは2020年(令和2年)3月をもって閉店することが両者で合意され、翌2021年(令和3年)2月20日に一旦閉店し、同年3月6日に「オークワ田辺東山店」としてかつての駐車場跡地に移転した。
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移転の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/27 06:49 UTC 版)
「長崎市野口彌太郎記念美術館」の記事における「移転の経緯」の解説
1993年(平成5年)4月に開館してから、2007年(平成19年)3月まで、長崎市大浦町の旧長崎英国領事館にて作品の展示を行っていた。しかし、国の重要文化財に指定されているこの建物は1908年(明治41年)に建てられたものであり、老朽化がすすみ修復工事が必要となったため、2007年(平成19年)4月に、平和会館に移転した。
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移転の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 11:52 UTC 版)
2代目の石川県庁舎は1924年に国会議事堂(東京都千代田区永田町)の設計に携わった矢橋賢吉の設計による。レンガ造りを施した3階建(一部4階)の鉄筋コンクリート構造で、第2次世界大戦の戦災を免れて長らく石川県のランドマークに位置付けられてきた。 しかし、2代目庁舎が築70年以上が経ち老朽化が顕著になり、庁舎の移転構想が持ち上がるようになる。その後、1992年6月に県庁移転に関する基本構想特別委員会が設置され、1993年4月に石川県庁に移転対策室が設置されることになる。 1996年3月に、石川県庁移転の基本構想がまとまり、1999年11月に金沢市南新保町に庁舎を着工することになった。 2代目の石川県庁舎については石川県政記念しいのき迎賓館も参照
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