廃嫡
廃嫡
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寛永3年3月21日(1626年4月17日)、廃嫡された。当時江戸にいた梅津政景が『梅津政景日記』に記したところによると、義宣と義直は江戸城本丸にて催された猿楽を見物しに登城したが、帰って来た義宣は酷く立腹しており、「以前から義直を不届きに思っていたが今日いよいよ見限った、早々に秋田へ帰らせよ」と政景に命じたという。 御本丸にて御能相済み、番数九番あり。彦二郎殿〔ママ〕にも御登城、御能御見物、これに就き、御帰り(の)屋形様御腹立ニハ、兼々御不届ニ思し召され候へ共、今日いよいよ御覧し限られ候間、早々ニ秋田へ御下なされ候ようニ仕るべきよし、拙者に仰せ付けられ候 — 梅津政景『梅津政景日記』、神宮 2017, p. 135 25日付で義宣が国元の家老・梅津憲忠(政景の兄)へ送った書状にも、「元来ぼんやりした性格であった義直を、何かと手を尽くして指導してきたが、いよいよ見込みがなく見限った。そちらへ送るので一乗院に入れ出家させよ。20人扶持を遣わす以外の支援をしてはならない」と記されている。 彦次郎が儀、四ケ年が内色々情を入、猿まわし候ごとくに、しかつゝ、又色々為申聞候得共、しゆしやうかいなく生候故か、次第々々にぼれたるなりに而候、先第一しかり候を何共不思候而居候躰ニ而候間、人前をも為見候はゝ、薗気も可付かと分別候而正月より御前に出候所に、弥々気も不付ぼれたるなり、是非を書中ニ可書様も無之候間、其許え遣候、一乗院之弟子に仕、かみをそらせ可指置候、扶持方二十人扶持遣候而何に而も其他かまはず候而、可指置候 — 佐竹義宣(梅津憲忠宛て書状)、神宮 2017, p. 200 この時に何があったのか、同時代の史料には明確な記述がない。最初に事情が記されたのは、約100年後の享保期に編纂された『佐竹家譜』である。「古老伝て云」と伝聞であることを注記しつつ、「義直が猿楽の見物中に居眠りをし、隣にいた伊達政宗が義宣の膝を押してそれを知らせた」という失態があったと書かれている。 古老伝て云。今日営中に於て猿楽の内、眠に就く。伊達政宗傍に在て義宣の膝を擁して是を告ぐと云 — 佐竹家譜(義宣家譜)、神宮 2017, p. 136 猿楽見物の翌22日、義宣と政景は島田利正・酒井忠世を通じて義直廃嫡の意向を幕府へ伝え、23日に内諾を得た。義直は23日のうちに江戸を出発し、4月2日に秋田へ到着した。4月10日に城下の一乗院(真言宗)へ入り、出家した。 なお、4月25日(1626年5月20日)に亀田藩主の岩城吉隆(義宣の弟・義直の兄である岩城貞隆の子)が、義直に代わって義宣の嫡子になっている。
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廃嫡
出典:『Wiktionary』 (2021/06/21 00:05 UTC 版)
名詞
廃 嫡(はいちゃく)
発音(?)
- は↗いちゃく
翻訳
動詞
活用
- サ行変格活用
- 廃嫡-する
翻訳
- イタリア語: diseredare (it)
- 英語: disinherit (en)
- オランダ語: onterven (nl)
- ギリシア語: αποκληρώνω (el)
- スペイン語: desheredar (es)
- タイ語: ตัดมิให้รับมรดก (th)
- チェコ語: vydědit (cs)
- ドイツ語: enterben (de)
- フィンランド語: tehdä perinnöttömäksi (fi)
- フランス語: déshériter (fr)
- ブルガリア語: лишавам от наследство (bg)
- ポーランド語: wydziedziczyć (pl)
- マオリ語: whakahoe (mi)
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