東京時代とは? わかりやすく解説

東京時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 10:01 UTC 版)

東京時代(とうきょうじだい)とは、日本の歴史における時代区分で、1869年(明治2年)の東京奠都に伴い東京東京都)が事実上の首都となってからの日本を指す呼称として考え出された概念の一つ[1]


  1. ^ しかし、東京遷都の詔が出されておらず「東京奠都」(新たに都を建てる)であって「京都」は都としての価値を消失しておらず、また「東京(東の京)」という命名からも意味する様に、「東京は天皇が一時的に行幸(旅行)されているに過ぎず、いずれ京都にお戻りになられるおつもりであろう」とする意見も京都府民を中心に根強くある。
  2. ^ a b c ほぼ日刊イトイ新聞 川勝平太2004年10月12日講演録
  3. ^ 但し憲法制定以前は「主権者」の概念はなかった
  4. ^ 室町時代を「足利時代」、江戸時代を「徳川時代」と呼ぶ例も、政権を握っている王朝にちなんだ時代区分である。ただし江戸時代(=徳川時代)を見ても、江戸時代の中の細かい区分として「元禄」「享保」「化政」「幕末」といった元号や世相に則った名称も用いられている。
  5. ^ 地球の裏側から日本を見て 2004年2月5日「日本の時代区分」
  6. ^ 由井正臣著、岩波ジュニア新書『大日本帝国の時代―日本の歴史〈8〉』
  7. ^ 斎藤彰「大日本帝国時代の教育」


「東京時代」の続きの解説一覧

東京時代(70年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:01 UTC 版)

裸のラリーズ」の記事における「東京時代(70年代)」の解説

70年後半水谷東京移り長田幹夫ベース) 、正田俊一郎(ドラムス)と「東京版ラリーズ」を編成71年には久保田麻琴サポート的に参加し、「精進湖ロックシーン」などのイベントへの出演行ったという。72年にはギター中村復帰また、この年6月開店した吉祥寺のロック・ハウス"OZ"が裸のラリーズ出演ブッキングし、同店の主催裸のラリーズのホール・コンサートが企画されるなど、バンドへのバックアップなされてくる。 "OZ"は73年9月には閉店するが、店のスタッフバンドマネジメント務め裸のラリーズ始め同店に縁のあるアーティスト集めたOZ YAA HOUSE」(74年4月福生市民会館)などのコンサート企画運営した。なお、"OZ"は閉店直後オムニバス2枚組LPOZ DAYS LIVE』を製作し、第4面裸のラリーズライン録りのテイクが4曲収録された。その中には、彼らに特有のものとされるサイケデリックな爆音ロックを、この頃から展開し始める事を窺わせるナンバー含まれている。 70年代半ばにはいわゆるメジャーへの参入目的としないアーティストたちによるコンサートヒッピー系の人脈によって企画されイベントなど参加し、また都内開店し始めたライヴ・ハウスで主に単独公演行っている。76年には、音楽評論家間章仲介によりイギリスヴァージン・レコードからアルバムを出すというプラン組まれ都内スタジオでレコーディングが行われたが実現には至らなかったという。この頃メンバードラム正田から高橋シメ、さらに三巻俊郎へと代わりベース長田から楢崎裕史(ヒロシ)に代わった。後にアルバム『'77 LIVE』に収められることとなる77年3月立川でのパフォーマンスは、この水谷中村楢崎三巻という顔ぶれよるものである。78年11月コンサートからはギター中村抜けベース三巻ドラム野間幸道に交代。更に翌79年にはベースに"OZ"のエンジニアだったDoroncoが加入三巻ギター転向後、同年末に脱退

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東京時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 20:52 UTC 版)

倉掛英彰」の記事における「東京時代」の解説

その後THE NO-NAME~THE GRYDERとして継続したバンド活動の中、1988年吉祥寺にてライブハウスJ・JTIC」の立ち上げに関わった直後ミーナミーナ&ザ・グライダー)と結婚作曲家として沢田研二らに楽曲提供シーナ&ザ・ロケッツ主宰イベントRed Rokkets Show』への出演や、赤と黒率いた岩口タカ&クリープショウへの参加で、内田裕也主宰『ニューイヤーロックフェスティバル』出演など精力的な活動他、東京小金井にある宮地楽器でのギター講師努めながら、1994年Mac手に入れたことでクリエイターとして活動開始1998年制作プロダクションとして有限会社グライダーオフィスを創業

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東京時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 18:52 UTC 版)

小籔良隆」の記事における「東京時代」の解説

1999年~2004年活動拠点大阪から、東京移転 ・・演奏活動平行して芸能活動開始する。「めざましテレビ」「としまテレビ」etc..などテレビ番組にも出演ギタリスト・ジンモ氏・ベーシスト今沢カゲロウ氏とツアー慣行菅沼孝三ドラム道場ゲスト出演

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佐藤硯湖」の記事における「東京時代」の解説

明治2年1869年11月25日太政官書記任命された。同時に市谷仲の町居を構える明治4年1871年2月、誠と改名11月14日大主記に任命される1876年明治9年)、明治天皇東北巡行同行1879年明治12年)、宮内省文学御用掛に任命される。東京時代には大沼枕山広瀬青邨私塾通い交流深めた1886年明治19年)、宮内省退職引き続き嘱託として殉難書類取り調べ任される1890年明治23年6月2日病没。墓は東京四谷東長寺にある。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 06:50 UTC 版)

台湾民報」の記事における「東京時代」の解説

1923年大正12年4月15日雑誌台湾』の同人東京において『台湾民報』を創刊した。前身の機関誌『台湾青年』や雑誌台湾』が日本語中国語混用していたが、『台湾民報』では全て中国語白話文)により記述された。当初半月であったが、10月15日旬刊あらためられ、日本語版も創刊された。1925年大正14年7月12日には週刊日曜日)に改められる同時に王敏川社長とする台北支社設置した

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東京時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/10 06:48 UTC 版)

田辺三重松」の記事における「東京時代」の解説

1957年には函館市から東京都練馬区転居し1960年には「昭和新山」が文部省買い上げとなった1963年6月から12月にはヨーロッパ旅行しその後数年間は北欧フィヨルドスイス山々などの風景画制作1965年には日本橋高島屋で「スイスノルウェーの山」と題する個展開催した1967年には大雪山旅行中網膜剥離によって右目の視力失ったが、その後絵画の制作続けている。1970年には銀座の彩壺堂で個展開催1971年には北海道開発功労賞受賞1971年12月9日心臓喘息発作のために練馬区自宅死去74歳だった。築地本願寺行動美術協会が行われた。2011年には出身地北海道立函館美術館没後40年記念田辺三重松展」が開催された。

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東京時代(1972年~1978年)

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上田実 (医学研究者)」の記事における「東京時代(1972年1978年)」の解説

紛争終息した後、東京に出ることを決意。親の許しを得るためには専門職につくことが得策考え東京医科歯科大学再入学在学中は「自分とは何か」という青春期特有の悩みに憑りつかれ、心の葛藤解消するために小説書きはじめる。プロ作家目指して「エディター・スクール」に通う日もあった。卒業迫り同級生多く進路決めはじめたが、行く先が決まらず焦燥つのっていた。帰省途中偶然に立ち寄った名古屋大学医学部で、岡達(おかとおる)教授運命的に出会う

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東京時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 18:55 UTC 版)

イケダハヤト」の記事における「東京時代」の解説

2009年卒業し入社したルネサステクノロジではSNS担当したという。11ヵ月退職しその後ベンチャー企業「トライバルメディアハウス」でSMMアナリスト担当2010年頃にはビッグイシューSNSコンサルティングしている。また、エイズ孤児支援するNGO「PLAS」でソーシャルメディアマーケティング担当プロボノとして活動2010年にはNPO支援するプロボノ集団「テントセン」を創設し、代表を務めた2011年4月よりフリーランスとなり、ノマドワーカー暮らしになる。社会人2年目から同棲開始しており、2011年11月1日入籍したという。2012年9月1日NHK Eテレ放送された『新世代が解く!ニッポンのジレンマ4』では、高木新平小島梨揮古市憲寿とともにイケダ出演同年同月には『ビッグイシュー・オンライン』を立ち上げ編集長就任する(後、共同編集長)。 イケダ運営するニュースブログ「ihayato.news」は月間20万人超える訪問者集めたことがあり、同サイト管理者として「BLOGOS AWARD 2012大賞受賞している。同年には星海社新書より『年収150万円僕ら自由に生きていく』を出版しまた、多摩大学経営情報学部非常勤講師務めたこともある。

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東京時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 08:47 UTC 版)

グイド・フルベッキ」の記事における「東京時代」の解説

1869年明治2年2月13日に、フルベッキは突然明治政府より、大学設立のために江戸出仕するように通達を受ける。到着したばかりの後任宣教師ヘンリー・スタウト伝道引き継ぎ江戸向かった江戸では、法律改革論議顧問大学の設立仕事だった。 フルベッキ邸には、森有礼によって教師をしていた高橋是清住んでいて、フルベッキ世話をしている。高橋是清一時この邸宅抜けているが、ダビッド・モルレーマーレー)との交代の為、教師辞めたフルベッキ相談受けたり晩年フルベッキとも親交持っている1868年6月フルベッキ大隈重信小松帯刀より外交に関する官職引き継いでた)に、日本の近代化について進言(ブリーフ・スケッチ)を行った。それを大隈翻訳し岩倉具視見せたところ、1871年11月欧米視察のために使節団派遣することになった岩倉使節団)。直前までフルベッキ岩倉助言与えていた。フルベッキの案においては浦上四番崩れなどの関係のキリスト教理解などがメインであったが、岩倉の案では国家的使命帯びている。また、当初大隈重信渡米する予定であった留守政府になっている1877年には、日本政府より勲三等旭日章授与された。 1869年2月より東京大学前身に当たる開成学校旧幕府開成所)の教頭務めながら(高橋是清小村寿太郎入学)、学校整備行い1869年12月には大学南校改称した1873年には再び開成学校)。 大学南校在職中1870年10月から1873年まで教頭務め規則教育内容充実努めた大学南校在職中1871年明治4年10月5日明治天皇より学術功績への感謝更なる発展への期待希望する旨の勅語賜わる1872年には、福井藩明新館で教師をしていたウィリアム・エリオット・グリフィス呼び寄せて化学教授をさせた。ダビッド・モルレー文部省より督務官として召還されときには大変信頼し高橋是清に家を探させた。 1873年明治6年)に政府左院において翻訳顧問となり、1875年明治8年)から1877年明治10年)まで元老院職を奉じた。この間1874年明治7年)にラトガース大学より神学博士学位授与された。しかし、宣教師としての活動意欲見せるようになり、1877年明治10年9月官職退き東京一致神学校華族学校学習院)の講師務めた1878年7月には一時アメリカ帰国するが、翌1879年には宣教師として再来日する。 1886年明治19年明治学院開学時には理事神学部教授選ばれて、旧約聖書注解説教学(英語版)の教授務めている。1888年には明治学院理事長務める。 1884年には高崎に、1885年には板垣退助仲介によって高知渡り伝道活動をした。また、長崎にもたびたび伝道旅行をした。1883年4月大阪開かれた宣教師会議で「日本におけるプロテスタント宣教歴史」について講演した1878年には日本基督一致教会中会で旧約聖書翻訳委員選ばれ文語訳聖書詩篇などの翻訳携わった1888年2月旧約聖書翻訳完成祝賀会では、フルベッキ聖書翻訳沿革について講演した1890年明治23年)、高橋是清ペルーから帰朝したとき横浜フルベッキと会う。二度目宣教師としてこられたときは宣教師仲間にあまり受けが良くなかった一度目も手厚い給与もらっていたため仲間からは妬まれていた)ため悲惨な境遇だったという。

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東京時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 01:05 UTC 版)

山中貞雄」の記事における「東京時代」の解説

海鳴り街道』の不評により、山中スランプ陥った見なされるようになった秋山によると、この頃山中は「わいもうあかんね」と吐露するほど苦悶していたという。それと同時に梶原金八も、鳴滝組目指し時代劇新形式や内容パターン化し、その存在理由薄れて行き詰まり見えてきたことに加え萩原監督昇進したり、滝沢東京へ活動拠点移したりするなどして、メンバー散会し始めていた。そんな中、すでに東京の空気に触れていた山中も、行き詰まり打開しようと東京へ出たがるようになった滝沢によると、山中小津清水などと深く交際すればするほど東京行きへの気持ち強まり、「東京へ出んとあかん」と口癖のように言っていたという。 1936年8月前進座映画製作提携先日活から東京P.C.L.映画製作所東宝前身会社のひとつ)へ移転したP.C.L.東京へ移転した滝沢入社先でもあり、同年10月山中滝沢入社第1回作品で、前進座とP.C.Lの初提携作品となる『戦国群盗伝』(1937年)のシナリオ執筆し単独執筆ながら梶原金八名義とした。この前後に山中前進座からP.C.L.入社強く要請され同年末までにP.C.L.入社仮契約交わしたこの頃日活での最後作品となる『森の石松』(1937年)のシナリオ執筆し、翌1937年1月撮影始め3月完成した。『森の石松』は意気がってヤクザになった森の石松抗え運命の中で惨死するまでを描いており、石松滅多斬り殺されるラストシーン凄惨さは人びと強烈な感銘与えた1937年3月山中は『森の石松完成後に日活退社し4月1日付でP.C.L.入社するため上京した。しばらく旅館住まい送ったのち、滝沢赤坂区青山南町の借家同居し、やがて監督志望上京した甥の加藤泰同居した。東京へ出てきた山中は、野球ラグビー観戦したり、新劇新協劇団前進座舞台鑑賞したり、毎夜のように銀座飲み歩いたりして東京生活を満喫した滝沢によると、山中子供のようにはしゃぎ、見るもの、聞くものすべてが楽しそうだったといい、「東京はええわ。東京へ出て来よかった。俺は、二度と京都へは帰らん」と言ったという。 同年3月中に山中P.C.L.入社第1回作品は『人情紙風船』(1937年)と決まり三村シナリオ執筆依頼したが、三村書き上げたシナリオあまりにも過ぎたため、山中箱根温泉改稿行い6月にようやく完成稿が仕上がった撮影6月下旬から7月下旬にかけての1ヶ月間で終了した。『人情紙風船』は黙阿弥歌舞伎演目梅雨小袖昔八丈』が原作で、前進座ユニット出演した作品大商人結託しヤクザ親分鼻を明かすために大商人の娘を誘拐した髪結い新三と、その誘拐片棒担いだ就職活動中の浪人物語中心に、貧乏長屋住民たちの人間群像ペシミスティック描いている。キネマ旬報ベスト・テンでは7位に選ばれたが、これまでの山中作品とは異な陰惨な内容だったため、批評家からはその雰囲気同調できないとの声が上がった後年にはそれが軍国主義台頭し自由主義閉塞する暗い世相対す小市民感情や、山中自身心境反映したものと分析された。

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東京時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:50 UTC 版)

新井奥邃」の記事における「東京時代」の解説

1904年明治37年)春、米国で奥邃の世話になった横浜富豪平沼専蔵養子平沼次郎厚意により、東京市郊外巣鴨町東福寺借地寮舎食堂兼ねた別棟完成する。奥邃の意を受け天井張っていなかったその簡略質素な建物は「謙和舎」と命名されそれまで小石川大塚辻町で奥邃の許で起居していた学生書生らとの新たな共同生活始まった大正期の舎生で当時六合雑誌』の編集携わり、後に早稲田大学教授となった工藤直太郎は、「謙和」は『宋史陳瓘伝の「謙和不与物競(謙和ニシテ物ノタメニ競ハズ)」から採ったとしている。 1906年明治39年10月、謙和舎のOBや奥邃を敬慕した既婚者社会人など「通い」の門人遠近賛同者による相互修養の会「大和(たいか)会」が発足し以後、月の第1日曜に謙和舎に会同する。例会では奥邃が近々時に書いたものを朗読し聞かせ、共に食事をするのが慣わしだった。1908年頃に婦人対象とした「母の子供会」も始まり、月第3日曜会した。こうして1922年大正11年)の死去に至るまで、一般公刊誌に寄稿することほとんどなく、奥邃は少数門人感化育成啓発と、無償頒布した小冊子執筆心血を注いだ。 奥邃は生涯独身貫き早起きを旨とし、静謐守りいかなる宗派にも属しなかった独立不羈祈りの人であった自分過去語らず門人には敬助等の画家写真家中村金蔵がいたのにもかかわらず一切写真肖像画許さず泥棒にまで同情されといわれる簡素な生活に徹した死に際しては墓石建てることさえよしとしなかった。

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