東京時代
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東京時代(とうきょうじだい)とは、日本の歴史における時代区分で、1869年(明治2年)の東京奠都に伴い東京(東京都)が事実上の首都となってからの日本を指す呼称として考え出された概念の一つ[1]。
- ^ しかし、東京遷都の詔が出されておらず「東京奠都」(新たに都を建てる)であって「京都」は都としての価値を消失しておらず、また「東京(東の京)」という命名からも意味する様に、「東京は天皇が一時的に行幸(旅行)されているに過ぎず、いずれ京都にお戻りになられるおつもりであろう」とする意見も京都府民を中心に根強くある。
- ^ a b c ほぼ日刊イトイ新聞 川勝平太2004年10月12日講演録
- ^ 但し憲法制定以前は「主権者」の概念はなかった
- ^ 室町時代を「足利時代」、江戸時代を「徳川時代」と呼ぶ例も、政権を握っている王朝にちなんだ時代区分である。ただし江戸時代(=徳川時代)を見ても、江戸時代の中の細かい区分として「元禄」「享保」「化政」「幕末」といった元号や世相に則った名称も用いられている。
- ^ 地球の裏側から日本を見て 2004年2月5日「日本の時代区分」
- ^ 由井正臣著、岩波ジュニア新書『大日本帝国の時代―日本の歴史〈8〉』
- ^ 斎藤彰「大日本帝国時代の教育」
- 1 東京時代とは
- 2 東京時代の概要
- 3 背景
- 4 旧来の時代との違い
東京時代(70年代)
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「裸のラリーズ」の記事における「東京時代(70年代)」の解説
70年の後半、水谷は東京に移り、長田幹夫(ベース) 、正田俊一郎(ドラムス)と「東京版ラリーズ」を編成。71年には久保田麻琴がサポート的に参加し、「精進湖ロックシーン」などのイベントへの出演を行ったという。72年にはギターの中村が復帰。また、この年の6月に開店した吉祥寺のロック・ハウス"OZ"が裸のラリーズの出演をブッキングし、同店の主催で裸のラリーズのホール・コンサートが企画されるなど、バンドへのバックアップがなされてくる。 "OZ"は73年9月には閉店するが、店のスタッフがバンドのマネジメントを務め、裸のラリーズを始め同店に縁のあるアーティストを集めた「OZ YAA HOUSE」(74年4月、福生市民会館)などのコンサートを企画運営した。なお、"OZ"は閉店の直後、オムニバスの2枚組LP『OZ DAYS LIVE』を製作し、第4面に裸のラリーズのライン録りのテイクが4曲収録された。その中には、彼らに特有のものとされるサイケデリックな爆音のロックを、この頃から展開し始める事を窺わせるナンバーも含まれている。 70年代半ばにはいわゆるメジャーへの参入を目的としないアーティストたちによるコンサート、ヒッピー系の人脈によって企画されたイベントなどに参加し、また都内に開店し始めたライヴ・ハウスで主に単独の公演を行っている。76年には、音楽評論家の間章の仲介によりイギリスのヴァージン・レコードからアルバムを出すというプランが組まれ、都内のスタジオでレコーディングが行われたが実現には至らなかったという。この頃、メンバーはドラムは正田から高橋シメ、さらに三巻俊郎へと代わり、ベースは長田から楢崎裕史(ヒロシ)に代わった。後にアルバム『'77 LIVE』に収められることとなる77年3月、立川でのパフォーマンスは、この水谷、中村、楢崎、三巻という顔ぶれによるものである。78年11月のコンサートからはギターの中村が抜け、ベースに三巻、ドラムは野間幸道に交代。更に翌79年にはベースに"OZ"のエンジニアだったDoroncoが加入。三巻はギターに転向後、同年末に脱退。
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東京時代
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その後THE NO-NAME~THE GRYDERとして継続したバンド活動の中、1988年吉祥寺にてライブハウス「J・J・TIC」の立ち上げに関わった直後、ミーナ(ミーナ&ザ・グライダー)と結婚。作曲家として沢田研二らに楽曲提供。シーナ&ザ・ロケッツ主宰イベント『Red Rokkets Show』への出演や、赤と黒を率いた岩口タカ&クリープショウへの参加で、内田裕也主宰『ニューイヤーロックフェスティバル』出演などの精力的な活動他、東京小金井にある宮地楽器でのギター講師を努めながら、1994年、Macを手に入れたことでクリエイターとしての活動を開始。1998年、制作プロダクションとして有限会社グライダーオフィスを創業。
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東京時代
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1999年~2004年活動拠点を大阪から、東京に移転 ・・演奏活動と平行して芸能活動も開始する。「めざましテレビ」「としまテレビ」etc..などテレビ番組にも出演ギタリスト・ジンモ氏・ベーシスト・今沢カゲロウ氏とツアーを慣行。菅沼孝三ドラム道場にゲスト出演。
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東京時代
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明治2年(1869年)11月25日、太政官書記に任命された。同時に市谷仲の町に居を構える。明治4年(1871年)2月、誠と改名。11月14日権大主記に任命される。 1876年(明治9年)、明治天皇の東北巡行に同行。1879年(明治12年)、宮内省文学御用掛に任命される。東京時代には大沼枕山、広瀬青邨の私塾に通い交流を深めた。 1886年(明治19年)、宮内省を退職。引き続き嘱託として殉難書類取り調べを任される。 1890年(明治23年)6月2日、病没。墓は東京四谷の東長寺にある。
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東京時代
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1923年(大正12年)4月15日、雑誌『台湾』の同人が東京において『台湾民報』を創刊した。前身の機関誌『台湾青年』や雑誌『台湾』が日本語と中国語を混用していたが、『台湾民報』では全て中国語(白話文)により記述された。当初は半月刊であったが、10月15日に旬刊にあらためられ、日本語版も創刊された。1925年(大正14年)7月12日には週刊(日曜日)に改められると同時に、王敏川を社長とする台北支社を設置した。
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東京時代
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1957年には函館市から東京都練馬区に転居し、1960年には「昭和新山」が文部省買い上げとなった。1963年6月から12月にはヨーロッパを旅行し、その後数年間は北欧のフィヨルドやスイスの山々などの風景画を制作。1965年には日本橋の高島屋で「スイスとノルウェーの山」と題する個展を開催した。1967年には大雪山を旅行中に網膜剥離によって右目の視力を失ったが、その後も絵画の制作を続けている。1970年には銀座の彩壺堂で個展を開催。1971年には北海道開発功労賞を受賞。 1971年12月9日、心臓喘息発作のために練馬区の自宅で死去。74歳だった。築地本願寺で行動美術協会葬が行われた。2011年には出身地の北海道立函館美術館で没後40年記念「田辺三重松展」が開催された。
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東京時代(1972年~1978年)
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「上田実 (医学研究者)」の記事における「東京時代(1972年~1978年)」の解説
紛争が終息した後、東京に出ることを決意。親の許しを得るためには専門職につくことが得策と考え、東京医科歯科大学に再入学。在学中は「自分とは何か」という青春期特有の悩みに憑りつかれ、心の葛藤を解消するために小説を書きはじめる。プロ作家を目指して「エディター・スクール」に通う日もあった。卒業が迫り同級生の多くが進路を決めはじめたが、行く先が決まらず焦燥がつのっていた。帰省の途中、偶然に立ち寄った名古屋大学医学部で、岡達(おかとおる)教授と運命的に出会う。
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東京時代
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2009年に卒業し、入社したルネサステクノロジではSNSを担当したという。11ヵ月で退職し、その後はベンチャー企業「トライバルメディアハウス」でSMMアナリストを担当。2010年頃にはビッグイシューのSNSをコンサルティングしている。また、エイズ孤児を支援するNGO「PLAS」でソーシャルメディアマーケティング担当のプロボノとして活動。2010年にはNPOを支援するプロボノ集団「テントセン」を創設し、代表を務めた。 2011年4月よりフリーランスとなり、ノマドワーカーの暮らしになる。社会人2年目から同棲を開始しており、2011年11月1日に入籍したという。2012年9月1日にNHK Eテレで放送された『新世代が解く!ニッポンのジレンマ4』では、高木新平や小島梨揮、古市憲寿らとともにイケダも出演。同年同月には『ビッグイシュー・オンライン』を立ち上げ、編集長に就任する(後、共同編集長)。 イケダが運営するニュースブログ「ihayato.news」は月間20万人を超える訪問者を集めたことがあり、同サイトの管理者として「BLOGOS AWARD 2012」大賞を受賞している。同年には星海社新書より『年収150万円で僕らは自由に生きていく』を出版し、また、多摩大学の経営情報学部で非常勤講師を務めたこともある。
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東京時代
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1869年(明治2年)2月13日に、フルベッキは突然明治政府より、大学設立のために江戸に出仕するように通達を受ける。到着したばかりの後任宣教師ヘンリー・スタウトに伝道を引き継ぎ、江戸に向かった。江戸では、法律の改革論議の顧問と大学の設立の仕事だった。 フルベッキ邸には、森有礼によって教師をしていた高橋是清が住んでいて、フルベッキの世話をしている。高橋是清は一時この邸宅を抜けているが、ダビッド・モルレー(マーレー)との交代の為、教師を辞めたフルベッキの相談を受けたり、晩年のフルベッキとも親交を持っている。 1868年6月にフルベッキは大隈重信(小松帯刀より外交に関する官職を引き継いでた)に、日本の近代化についての進言(ブリーフ・スケッチ)を行った。それを大隈が翻訳し、岩倉具視に見せたところ、1871年11月に欧米視察のために使節団を派遣することになった(岩倉使節団)。直前までフルベッキが岩倉に助言を与えていた。フルベッキの案においては、浦上四番崩れなどの関係のキリスト教理解などがメインであったが、岩倉の案では国家的使命を帯びている。また、当初は大隈重信が渡米する予定であったが留守政府側になっている。1877年には、日本政府より勲三等旭日章を授与された。 1869年2月より東京大学の前身に当たる開成学校(旧幕府開成所)の教頭を務めながら(高橋是清や小村寿太郎が入学)、学校の整備を行い、1869年12月には大学南校と改称した(1873年には再び開成学校)。 大学南校在職中の1870年10月から1873年まで教頭を務め、規則や教育内容の充実に努めた。大学南校在職中の1871年(明治4年)10月5日、明治天皇より学術の功績への感謝と更なる発展への期待を希望する旨の勅語を賜わる。1872年には、福井藩明新館で教師をしていたウィリアム・エリオット・グリフィスを呼び寄せて、化学の教授をさせた。ダビッド・モルレーが文部省より督務官として召還されたときには大変信頼し、高橋是清に家を探させた。 1873年(明治6年)に政府左院において翻訳顧問となり、1875年(明治8年)から1877年(明治10年)まで元老院に職を奉じた。この間の1874年(明治7年)にラトガース大学より神学博士の学位を授与された。しかし、宣教師としての活動に意欲を見せるようになり、1877年(明治10年)9月に官職を退き、東京一致神学校や華族学校(学習院)の講師を務めた。 1878年7月には一時アメリカに帰国するが、翌1879年には宣教師として再来日する。 1886年(明治19年)明治学院の開学時には、理事と神学部教授に選ばれて、旧約聖書注解と説教学(英語版)の教授を務めている。1888年には明治学院理事長を務める。 1884年には高崎に、1885年には板垣退助の仲介によって高知に渡り、伝道活動をした。また、長崎にもたびたび伝道旅行をした。1883年4月大阪で開かれた宣教師会議で「日本におけるプロテスタント宣教の歴史」について講演した。1878年には日本基督一致教会中会で旧約聖書翻訳委員に選ばれ、文語訳聖書の詩篇などの翻訳に携わった。1888年2月の旧約聖書翻訳完成祝賀会では、フルベッキが聖書翻訳の沿革について講演した。 1890年(明治23年)、高橋是清がペルーから帰朝したとき横浜でフルベッキと会う。二度目に宣教師としてこられたときは宣教師仲間にあまり受けが良くなかった(一度目も手厚い給与をもらっていたため仲間からは妬まれていた)ため悲惨な境遇だったという。
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東京時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 01:05 UTC 版)
『海鳴り街道』の不評により、山中はスランプに陥ったと見なされるようになった。秋山によると、この頃の山中は「わいもうあかんね」と吐露するほど苦悶していたという。それと同時に梶原金八も、鳴滝組が目指した時代劇の新形式や内容がパターン化し、その存在理由が薄れて行き詰まりが見えてきたことに加え、萩原が監督に昇進したり、滝沢が東京へ活動拠点を移したりするなどして、メンバーが散会し始めていた。そんな中、すでに東京の空気に触れていた山中も、行き詰まりを打開しようと東京へ出たがるようになった。滝沢によると、山中は小津や清水などと深く交際すればするほど東京行きへの気持ちが強まり、「東京へ出んとあかん」と口癖のように言っていたという。 1936年8月、前進座が映画製作の提携先を日活から東京のP.C.L.映画製作所(東宝の前身会社のひとつ)へ移転した。P.C.L.は東京へ移転した滝沢の入社先でもあり、同年10月に山中は滝沢の入社第1回作品で、前進座とP.C.Lの初提携作品となる『戦国群盗伝』(1937年)のシナリオを執筆し、単独執筆ながら梶原金八名義とした。この前後に山中は前進座からP.C.L.入社を強く要請され、同年末までにP.C.L.入社の仮契約を交わした。この頃に日活での最後の作品となる『森の石松』(1937年)のシナリオを執筆し、翌1937年1月に撮影を始め、3月に完成した。『森の石松』は意気がってヤクザになった森の石松が抗えぬ運命の中で惨死するまでを描いており、石松が滅多斬りに殺されるラストシーンの凄惨さは人びとに強烈な感銘を与えた。 1937年3月、山中は『森の石松』完成後に日活を退社し、4月1日付でP.C.L.へ入社するため上京した。しばらく旅館住まいを送ったのち、滝沢と赤坂区青山南町の借家に同居し、やがて監督志望で上京した甥の加藤泰も同居した。東京へ出てきた山中は、野球やラグビーを観戦したり、新劇の新協劇団や前進座の舞台を鑑賞したり、毎夜のように銀座で飲み歩いたりして東京生活を満喫した。滝沢によると、山中は子供のようにはしゃぎ、見るもの、聞くものすべてが楽しそうだったといい、「東京はええわ。東京へ出て来てよかった。俺は、二度と京都へは帰らん」と言ったという。 同年3月中に山中のP.C.L.入社第1回作品は『人情紙風船』(1937年)と決まり、三村にシナリオ執筆を依頼したが、三村が書き上げたシナリオはあまりにも長過ぎたため、山中が箱根温泉で改稿を行い、6月にようやく完成稿が仕上がった。撮影は6月下旬から7月下旬にかけての1ヶ月間で終了した。『人情紙風船』は黙阿弥の歌舞伎演目『梅雨小袖昔八丈』が原作で、前進座がユニット出演した。作品は大商人と結託したヤクザの親分の鼻を明かすために大商人の娘を誘拐した髪結い新三と、その誘拐の片棒を担いだ就職活動中の浪人の物語を中心に、貧乏長屋の住民たちの人間群像をペシミスティックに描いている。キネマ旬報ベスト・テンでは7位に選ばれたが、これまでの山中作品とは異なる陰惨な内容だったため、批評家からはその雰囲気に同調できないとの声が上がった。後年にはそれが軍国主義が台頭し自由主義が閉塞する暗い世相に対する小市民の感情や、山中自身の心境を反映したものと分析された。
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東京時代
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1904年(明治37年)春、米国で奥邃の世話になった横浜の富豪平沼専蔵の養子・平沼延次郎の厚意により、東京市郊外巣鴨町の東福寺の借地に寮舎と食堂を兼ねた別棟が完成する。奥邃の意を受けて天井も張っていなかったその簡略質素な建物は「謙和舎」と命名され、それまで小石川大塚辻町で奥邃の許で起居していた学生・書生らとの新たな共同生活が始まった。大正期の舎生で当時『六合雑誌』の編集に携わり、後に早稲田大学教授となった工藤直太郎は、「謙和」は『宋史』陳瓘伝の「謙和不与物競(謙和ニシテ物ノタメニ競ハズ)」から採ったとしている。 1906年(明治39年)10月、謙和舎のOBや奥邃を敬慕した既婚者や社会人など「通い」の門人と遠近の賛同者による相互修養の会「大和(たいか)会」が発足し、以後、月の第1日曜に謙和舎に会同する。例会では奥邃が近々時に書いたものを朗読して聞かせ、共に食事をするのが慣わしだった。1908年頃に婦人を対象とした「母の子供会」も始まり、月第3日曜に会した。こうして1922年(大正11年)の死去に至るまで、一般公刊誌に寄稿することほとんどなく、奥邃は少数の門人の感化・育成・啓発と、無償で頒布した小冊子の執筆に心血を注いだ。 奥邃は生涯独身を貫き、早起きを旨とし、静謐を守り、いかなる宗派にも属しなかった独立不羈の祈りの人であった。自分の過去を語らず、門人には柳敬助等の画家や写真家の中村金蔵がいたのにもかかわらず、一切の写真や肖像画を許さず、泥棒にまで同情されたといわれる簡素な生活に徹した。死に際しては墓石を建てることさえよしとしなかった。
※この「東京時代」の解説は、「新井奥邃」の解説の一部です。
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