いわくら‐しせつだん〔いはくら‐〕【岩倉使節団】
岩倉使節団
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岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団である。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。当初の目的であった不平等条約改正の交渉は果たせなかったものの、日本近代化の原点となる旅として、明治政府の国家建設に大きな影響を与えたことから、日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節とも言われる[1]。
- ^ 岩倉使節団 米欧亜回覧の会 岩倉使節団とは?『明治維新政府首脳による西洋文明調査旅行』 2017年2月4日
- ^ 牧原憲夫, p. 102.
- ^ アメリカではグラント大統領、イギリスではヴィクトリア女王、フランスではティエール大統領、ベルギーでは国王レオポルド2世、オランダでは国王ウィレム3世、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム1世と謁見した。
- ^ 宮永孝「アメリカにおける岩倉使節団 : 岩倉大使の条約改正交渉」『社會勞働研究』第38巻第2号、法政大学、1992年1月、43-93頁、NAID 110000184475。
- ^ 長野桂次郎国立公文書アジア歴史センター
- ^ 池田寛治国立公文書アジア歴史センター
- ^ 阿部潜国立公文書アジア歴史センター
- ^ 岩倉使節団メンバー(出発時)米欧亜回覧の会
- ^ 吉雄永昌国立公文書アジア歴史センター
- ^ 瓜生震(読み)うりゅう しんコトバンク
- ^ a b “津田塾大学デジタルアーカイブ「津田梅子 4, 五人の女子留学生たち、シカゴにて」”. 津田塾大学. 2022年10月24日閲覧。 “津田塾大学デジタルアーカイブのファイル名:PH011_001”
- ^ 亀田 2005, p. 14
- ^ 三菱UFJフィナンシャルグループ (2009年1月8日). “MUFGのある暮らし 5号” (PDF). 2021年4月18日閲覧。 p.23
- 1 岩倉使節団とは
- 2 岩倉使節団の概要
- 3 概要
- 4 目的
- 5 備考
- 6 関連項目
岩倉使節団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 02:15 UTC 版)
積極的に関係を結ぼうと、使者を送ってきたり軍艦を引き連れてきたりしていたアメリカであったが、日米修好通商条約の締結・批准後、下関戦争などの長州藩と四国艦隊(アメリカを含む)との攻防などはあったが、積極的な関係は一時途絶える。理由としては下記の二つが挙げられる。 アメリカ南北戦争(1861年~1865年) 日本の明治維新(1868年) しかし、この時期が過ぎ明治政府が成立すると、先の不平等条約を撤廃しようと日本側は動き始める。その第一陣的なものとなるのが、岩倉使節団である。1872年3月4日昼 (現地時間)、岩倉具視は米大統領グラントに謁見する。
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岩倉使節団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 08:52 UTC 版)
慶応2年(1866年)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける。慶応3年(1867年)にフィリップス・アカデミーを卒業。明治3年(1870年)にアイビーリーグと同等レベルのリベラルアーツカレッジのトップ3の一つで、リトルアイビーと呼ばれる名門校アーモスト大学を卒業(理学士)。これは日本人初の学士の学位取得であった。新島は大学で自然科学系地質学(鉱物学)を専攻していた。アーモスト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていた。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなった。当初、密航者として渡米した襄であったが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。 明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させた。襄は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンに戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査した。
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岩倉使節団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 01:59 UTC 版)
岩倉使節団に長崎県出身の長岡治三郎(物理学者の長岡半太郎の父)、朝永甚次郎(ノーベル物理学賞受賞者・朝永振一郎の祖父)と共に留学参加した。
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