FC東京時代
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複数クラブが獲得の争奪戦に乗り出す中、スカウトの熱意、若手の積極起用、地元クラブという理由で、2015年Jリーグ・FC東京に入団。こだわりを持つ左SBでポジション争いに臨み ポジショニングと筋力を向上させた。迎えた2016年3月、ACLグループステージ第2節・ビンズオン戦においてFC東京トップチームでの公式戦初出場。手薄となっていた左SBに配されると共にプレースキッカーを任されると、相手GKを強襲するオウンゴールの誘発とFW前田遼一へのアシストによって逆転勝利の立役者となった。通年ではリーグ戦のアシスト数とクロス数でチーム最多を記録した。また、同年4月にはU-23日本代表候補合宿に参加。左足のクロスでアピールしたが同年開催のオリンピックメンバーからは外れたが、2017年5月31日のルヴァンカップ第7節の清水エスパルス戦でFKからプロ入り初得点を決めた。7月15日、J3第17節のガイナーレ鳥取でリーグ戦初得点を決めた。7月30日、第19節のアルビレックス新潟戦で、J1初出場。2018年3月31日、第5節のガンバ大阪戦では先発すると2アシストの活躍を見せた。7月19日、第16節の柏レイソル戦では本職ではない右サイドバックで先発する。クリスティアーノ・ダ・シウヴァとマッチアップするも無失点に抑えて勝利に貢献した。 2019年は、元日本代表SB太田宏介とのハイレベルなポジション争いを制し、レギュラーに定着した。5月18日、第12節の北海道コンサドーレ札幌戦でJ1リーグ初得点を決めた。
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FC東京(監督/GM)時代
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「坂本将康」の記事における「FC東京(監督/GM)時代」の解説
2009年にはVプレミアリーグ昇格を果たしたFC東京の監督に就任。9年間、監督を務める。その間、2010年千葉国体準優勝、2011年山口国体優勝、2011年天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会準優勝、2011年黒鷲旗大会準優勝、2017年愛媛国体優勝を果たす。2018年にGMに就任。 2019年6月18日、FC東京公式サイトにて同月末でのGM退任が発表された。 監督として9シーズン、GMとして1シーズン、試合前の緊張感のなか幾度となく、耳にしてきたユルネバがもう聞けなくなるのは正直、寂しい気持ちです。応援団席だけでなく、アリーナに座っていたみなさん、タオマフを掲げ応援してくださった皆さん、いつも勇気づけられました。本当にありがとうございました。FC東京の選手は個々の職務を全うし、バレーボールに全力を尽くすことのできるプロフェッショナルです。その選手を支え、チームを支えてくださっている皆様、ありがとうございました。この10年間でたくさんのことを経験し、学ぶことが出来ました。これこそ選手がいてくれたからのことであり、その存在なくしては語れないことだと思います。今までFC東京バレーボールチームでともに戦ってくれた選手に心から感謝いたします。 — 坂本将康 FC東京GM「FC東京|坂本将康GM 退任のお知らせ」より
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FC東京時代
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大学卒業を待たずしてプロに進むことを決意し、2008年に在学したままサッカー部を退部してFC東京と正式契約を結んだ。神川は長友を2008年度のサッカー部副将に据えるつもりでいたが、長友の強い決意に触れてこれを撤回。サッカー部を1年残して退部しFC東京とのプロ契約を決断した理由の一つに、「女手一つで自分を含む3兄弟を育てる母に経済的に早く楽をさせたかった」ことを挙げている。3月8日、リーグ開幕戦の神戸戦から、前年までレギュラーだった金沢浄らを押しのけて先発出場を果たす。5月3日、第10節大宮戦でJリーグ初得点を決めた。東京加入後の主ポジションは左サイドバックであったが、同年後半、当時の監督城福浩は、東京のその時点でのチーム状況や対戦相手の選手の特長によって、右サイドバックを主としていた徳永悠平と長友を左右入れ替えて起用した。 5月18日には岡田武史率いる日本代表に初招集され、5月24日のキリンカップコートジボワール戦にフル出場して代表初出場を記録。11月13日のキリンチャレンジカップ・シリア戦では先制のミドルシュートを決め代表初得点を記録した。また、同年の北京オリンピック日本代表に選出され本大会にも出場したが、チームはグループリーグ3戦全敗に終わり、後に「余裕がなかった」「思い通りのプレーはできなかった」と語っている。 2009年からはフィジカルコーチの土斐﨑浩一とともにアップダウンの質の向上を目指し走法の改良に着手。運動量と、強靭なフィジカルを活かしたスピード感のあるプレーに磨きをかけた。同年12月に日本代表の特別講師を務めた川本和久からは、代表選手の中で唯一長友だけが「文句なし」のランニングフォームであると評価された。同年後半からは攻撃の駒としてサイドハーフに上がり、サイドバックには椋原健太らが投入されるという起用法も見られ、東京のナビスコカップ優勝に貢献するなど、ユーティリティー性を発揮し、この年のJリーグベストイレブンにも選出された。 2010年の南アフリカワールドカップでは、全4試合に左サイドバックでフル出場を果たした。グループリーグ第1戦のカメルーン戦では後にチームメイトとなるサミュエル・エトオを徹底マークし完封、第2戦のオランダ戦においては途中出場したエルイェロ・エリアのポジションに合わせて右サイドバックにポジションチェンジするなどエースキラーとして活躍し、日本代表の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。同大会から国際サッカー連盟(FIFA)が導入したレーザー計測によると、長友のトップスピードは第1戦のカメルーン戦では時速30.13km、第2戦(オランダ)では同26.70kmと、両試合共に対戦相手を含めて最速を記録した。また、この活躍により地元の愛媛県から愛媛県文化・スポーツ賞を授与された。 7月14日、ワールドカップでの活躍が評価され、セリエAに20シーズンぶりに昇格したACチェゼーナへ買い取りオプション付きでのレンタル移籍が決定。退団セレモニーの際は「みなさんと別れるつもりはありません。世界一のサイドバックになって、また青赤のユニホームを着たいです」と涙ながらに語り、東京サポーターから拍手でイタリアに送り出された。
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