三韓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 14:08 UTC 版)
弁韓
12カ国に分かれていてそれぞれ王がいた。大雑把にのちの任那、現在の全羅南道の東部から慶尚南道の西部である。後漢書では、韓三国の領土がすべて辰国であると記している。
備考
- 三韓の国内は諸小国に分立していたが、それぞれの諸小国には首長がおり、大きな首長を臣智といい、それに次ぐものを邑借と呼んだが、臣智とは「臣たるもの」の謂であり、中国皇帝に対する臣下のことであり、それを諸小国の首長の立場から表現したものである[5]。
- 南北朝時代から唐にかけての中国では、百済、新羅、高句麗の三国を三韓と呼ぶ例があり[2]、朝鮮半島でも統一新羅時代から李氏朝鮮時代まで三国を三韓と見て、自国を三韓と呼んだ。
- 現在のような三韓論を主張したのは韓百謙が最初であり、実学者たちによって定立された。
関連項目
- ^ Jeon, Jin Kook (2016). “The usage and The Perspective of ‘Samhan(三韓)’” (カヌリ語). The Journal of Korean History (173): 1–38. ISSN 1226-296X .
- ^ a b 『魏書』陽固伝「東を遊覧しながら三韓を眺めた。」
- ^ 《魏略》曰:初,右渠未破時,朝鮮相曆谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戶,亦與朝鮮貢蕃不相往來。 — 三国志、魏書三十
- ^ 『北史』新羅伝「其言語名物、有似中國人」という記述がある。『後漢書』『三国志』辰韓伝によれば、辰韓は秦の移民の子孫であるとする。
- ^ 李成市『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、18頁。ISBN 978-4000029032。
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