リトアニア 概要

リトアニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 07:55 UTC 版)

概要

西はバルト海に面し、国境は、北はラトビア、東はベラルーシ、南はポーランド、南西はロシア飛び地カリーニングラード州と接する。面積は、北海道本島の面積約7.8万 km2の約84%となる6.53万 km2である。

リトアニアは、国連の分類では北ヨーロッパの国である[5]。一方、企業やその他の団体のレポートなどでは東ヨーロッパ[7][8][9]もしくは中東欧[10]の国との表記も見られる。

第一次世界大戦後の1918年リトアニア共和国としてロシア帝国より独立。1940年ソビエト連邦から、翌1941年独ソ戦勃発でナチス・ドイツからも侵略された。その後、ソ連に再占領されてソ連の構成共和国の一つとなったが、ソ連崩壊に伴い1990年独立を回復し、以後、親欧米路線を歩んでいる。

国名

リトアニア語における正式名称は、Lietuvos Respublika[lʲɪɛtʊˈvoːs rʲɛsˈpʊblʲɪkɐ] リエトゥヴォース・レスプブリカ) 。通称Lietuva[lʲɪɛtʊˈvɐ] リエトゥヴァ)、略称はLR 。

日本語の表記は「リトアニア共和国」で、通称「リトアニア[11][12]。一部「リトワニア」「リスアニア」と書かれたこともある[13]。「リトアニヤ」[14]、「リツアニア」[15]という表記も見られる。古くは里都亜尼亜[16]、 礼勿泥亜[17][18]、 里荅烏文[16]といった漢字表記が用いられた事もあった。

ソ連時代の国名は「リトアニア・ソビエト社会主義共和国」(ソビエト・リトアニア)であった。

由来

1009年の年代記に登場するリトアニアの国名

1009年3月9日付(正しくは2月14日であったとみられる)の年代記において"Lituae"と記されたのが、歴史上リトアニアの国名が登場する最初の例である[19]。これはラテン語による表記で、文法上は属格での表記であり、この主格は"Litua"となる[20]。当時 [v] の発音は "u" で表記されていたが、この「リトヴァ」という呼び方は現在でもポーランド語をはじめとするスラヴ諸語において用いられている(LitwaまたはLitvaと表記)[20]

共和国」に相当する"Respublika"(レスプブリカ)は、「公共のもの」を意味するラテン語の"res publica"(レス・プブリカ)に由来する。"res"(レス)は「物」や「財産」、"publica"(プブリカ)は「公共の」という意味である。

歴史

リトアニアの歴史

この記事はシリーズの一部です。
先史時代
バルト人
リトアニア王国 (1251年-1263年)
リトアニア大公国
ポーランド・リトアニア共和国
ロシア帝国
北西地域ヴィリナ県コヴノ県
リトアニア王国 (1918年) 
リトアニア・ソビエト社会主義共和国 (1918年-1919年)
リトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国 (1919年)
リトアニア共和国 (1918年-1940年)
リトアニア・ソビエト社会主義共和国 (1940年-1990年)
リトアニア共和国 (現代)

リトアニア ポータル
13世紀から現在までのリトアニアの領土

先史時代

紀元前15000年ごろ、当時のリトアニアの大地はまだツンドラに覆われていたが、狩猟や魚釣りを行っていたインド・ヨーロッパ祖語の話し手が紀元前2000年から紀元前3000年ごろにかけてやって来たことが確認されている。その後、温暖化が起こり氷期が終わると、人々は定住するようになる[21]。そして紀元前2000年ごろ、バルト族(現在のリトアニア人やラトビア人のようにバルト語を話す人々)がバルト地域へ定住するようになった[22]

中世・近世

「リトアニア」の国名が歴史的な文書に最初に登場するのは1009年である(国名の節参照)。

1230年代ミンダウガスがリトアニアの諸部族を統一。その後、1253年7月6日リトアニア王となった[23]戴冠式が行われた7月6日という日付は現在、リトアニアの建国記念日に制定されている(祝祭日の節参照)。1263年、ミンダウガス王が暗殺され、その後はリトアニア大公国では多神教が信仰されていたことからドイツ騎士団リヴォニア騎士団からの攻撃を受けるようになった(北方十字軍)。リトアニアは西方から100年にわたって騎士団からの攻撃を受け続けつつ、他方では東方(かつてのキエフ公国領)へと勢力を伸ばしていった。

14世紀末までにリトアニア大公国は現在のベラルーシ全域、ウクライナ全域、ポーランドの一部、ロシアの一部を領土とする、ヨーロッパ最大の国家となった[24]。東西の狭間に位置していたリトアニア大公国では、様々な文化や宗教が入り混ざっていた。リトアニアの支配者らはスラヴ文化・宗教に対して寛容で、また言語など多くの伝統をスラヴ部族から受け入れていった。政治的実体もハールィチ・ヴォルィーニ大公国ヴォルィーニ公国にあるほどであった。

ヴィータウタス大公。彼のもとでリトアニア大公国は最大版図を達成した(17世紀に描かれた絵画)。

1385年リトアニア大公ヨガイラポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、ポーランド王を兼ねるようになった。これを機にヨガイラはキリスト教を受容。そしてポーランド王国との間にクレヴォ合同が結ばれ、ポーランド・リトアニア合同が形成される。その後、2度の内戦を経て、1392年ヴィータウタスリトアニア大公となる。彼の治世のもとでリトアニア大公国は最大版図を達成し、中央集権化も進められた。この当時、リトアニア大公国における公用語はリトアニア語ではなく、現在のベラルーシ語の原型であるルテニア語であった。またリトアニア人の大公家を戴いていたものの、その政治的実態はリトアニア(リトゥアニア)人国家ではなく東スラヴ諸部族によるスラヴ人国家であった。

1410年、ポーランドとの協力によりドイツ騎士団との戦いに勝利を収めた。この戦いは中世ヨーロッパで最も大きな戦いの一つであり、リトアニアでは「ジャルギリスの戦い」として知られる[25][26]

このとき、リトアニア大公国軍は40部隊からなっていた。そのうち原リトアニアから来たリトアニア人部隊はたったの4つで、28部隊は現在のベラルーシから、8部隊がウクライナから参加していたスラヴ人部隊であった。このことからも、リトアニア大公国の実態がスラヴ人、特に東スラヴ人が主導的な国家であったことがうかがい知れる(一方で当時のポーランドは西スラヴ人の国家であった)。

ヨガイラとヴィータウタスの死後、リトアニアの貴族はポーランドとの合同を解消し、独自にリトアニア大公を選出しようとした。しかし15世紀末にモスクワ大公国が力をつけてリトアニアにとって脅威となり、さらにモスクワ・リトアニア戦争英語版およびリヴォニア戦争が起きる中で、リトアニアはポーランドとの関係を強化せざるを得なかった。

こうして1569年、ポーランド王国との間にルブリン合同が成立し、ポーランド・リトアニア共和国(ジェチポスポリタ)が誕生した。共和国内にあってもリトアニアは独自に軍隊や通貨、法令などを有していた[27]。しかし最終的にはリトアニアの政治、言語、文化など、すべての面においてポーランド化が進んだ。16世紀半ばから17世紀半ばにおいては、ルネサンスおよび宗教改革の影響から文化、芸術、教育が栄えた。1573年以降、ポーランド王兼リトアニア大公は貴族による自由選挙で選ばれるようになる。シュラフタたちは「黄金の自由」と呼ばれる政治的諸特権を享受し、当初はこれがいい方向に機能していた。しかし、この制度には自由拒否権に代表される欠陥があった。自由拒否権の廃止といった制度改革が、リトアニアのラジヴィウ家といった一部の裕福で野心的なシュラフタ(騎士階級)の反対によって遅れたことでのちに国家が無政府状態に陥り、最終的に周辺諸国によって分割・解体される要因となった。

1655年から1661年北方戦争において、リトアニアの領土や経済はスウェーデン軍によって破壊された。復興前に大北方戦争1700年 - 1721年)が勃発し、リトアニアは再び荒廃した。戦争、疫病、飢餓によって人口の約4割を失うこととなった[28]。周辺諸国、とりわけロシアのリトアニア国内における影響力は増大していった。リトアニア貴族の諸派閥が拒否権を発動し続けたことにより、改革は全て妨げられた。結局、ロシア帝国、プロイセン王国オーストリア大公国ハプスブルク君主国)の3か国によって1772年第1次ポーランド・リトアニア分割が行われ、その後1792年第2次1795年第3次分割が行われた。これによりポーランド・リトアニア共和国は解体された。

現在のリトアニアの領土の大半は、この分割によりロシア帝国領となった。1831年11月蜂起1863年1月蜂起はいずれも失敗に終わり、ツァーリはその後ロシア化政策を強化、リトアニア語による出版物の発行が禁じられ、文化施設や教育機関が閉鎖を余儀なくされた。リトアニア地域はロシア帝国内では北西地方(クライ)と呼ばれる地方に属することとなった。

1877年露土戦争の後、ロシア帝国とドイツ帝国の関係が悪化するのに伴い、1879年7月7日ロシア皇帝アレクサンドル2世は、ドイツとの戦いに備えるためにカウナス郊外に要塞を建設することを承認した。

この時代、1868年から1914年までの間に、約63万5,000人、人口のおよそ20%がリトアニアを離れた。その多くは、1867年から1868年に起きた飢饉をきっかけにアメリカ合衆国へと移住した[29]

リトアニア共和国として独立

リトアニア独立宣言(1918年2月16日)に署名したリトアニア評議会(タリーバ)のメンバー20名

第一次世界大戦が起きると、リトアニアは東部戦線の戦場となった。1918年2月16日ロシア革命の余波が及ぶ中でリトアニア評議会英語版(タリーバ)はリトアニアの独立を宣言した(リトアニア独立宣言)。当初はリトアニア王国として独立したが、これはドイツ帝国の計画したミッテル・オイローパ構想(汎ヨーロッパ主義)の一環であった。その後、1918年11月11日に第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北して崩壊すると、リトアニア第一共和国となった。

その後のリトアニアは、ポーランドおよびドイツとの領土問題を抱えることとなる。1920年、ジェリコフスキ将軍率いるポーランド軍はヴィリニュス地域を侵攻、その後この地域にはリトアニア共和国とは別に中部リトアニア共和国が建国された。中部リトアニア共和国は後にポーランドに編入されたが、リトアニアにとってヴィリニュスは歴史的首都で、憲法でも首都として制定されていたため、その後ポーランドとの間で領土問題を抱え続けることとなった。この結果、戦間期にはカウナスが臨時首都とされ、ポーランド第二共和国とは1938年に至るまで国交が樹立されないままであった。この戦間期におけるリトアニア共和国の領土面積は4万8,712km2であった。

第1次世界大戦後のリトアニアの領土

また、ドイツ(ヴァイマル共和政およびナチス・ドイツ)とはクライペダ(メーメル)地方をめぐる領土問題を抱えていた。第一次世界大戦後、クライペダ地方は国際管理地域とされていたが、1923年にリトアニア軍が侵攻し、占領した。しかしその後、1939年3月にこの地方はナチス・ドイツに併合されている。

リトアニア共和国はカウナスが臨時首都とされて以降は議会制民主主義体制がとられていた。1926年の軍事クーデタによりアンタナス・スメトナを大統領とする権威主義体制に移行した。

第二次世界大戦

1939年8月、ナチス・ドイツはヨシフ・スターリン治下のソ連と独ソ不可侵条約を締結。その秘密議定書でバルト三国と東欧の分割支配を約した。同年9月、ドイツに続いてソ連がポーランド東部に侵攻。ソ連はヴィリニュス地域をリトアニアに編入することを決定、ヴィリニュス地域がリトアニアに返還された[30]。しかしその9か月後の1940年6月、リトアニアはソ連から侵攻され独立を失う。この侵攻は、上記の独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づくものであった[31][32]。なお、在リトアニア・カウナス日本総領事館杉原千畝ユダヤ人を助けたのは、このころである。

翌年、ドイツ軍はソ連への侵攻を開始。リトアニアは独ソ戦末期までドイツ軍の占領下に置かれることとなった。ナチスとリトアニア人協力者は、リトアニアのユダヤ人およそ19万5,000人を殺害した[33](詳細は「リトアニアにおけるホロコースト」参照)。

1944年ソ連軍が再び侵攻し、その後はリトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連に編入された。1944年から1952年にかけて、約10万人のパルチザンがソビエト当局と戦った(「森の兄弟たち」)。約3万人のパルチザン兵士およびその支援者は殺され、そのほかにも多くが逮捕され、シベリアグラグへと強制追放された。第二次世界大戦中、あわせて78万人の住民がリトアニアで殺された[34]

独立回復へ

1986年以降、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ政権によるペレストロイカグラスノスチを機に、国民運動サユディスが設立され、その後独立運動へと発展していった。1990年リトアニア・ソビエト社会主義共和国最高会議選挙でサユディスは大勝利し、その後の1990年3月11日、初の非共産党員の最高会議議長ヴィータウタス・ランズベルギスが独立回復を宣言。これはソビエト連邦構成共和国の中で最も早いものであった。国内に他民族(主にロシア人)が少なかったことが、国内意見の集約を容易にさせた側面があるとされる。リトアニアの一方的な独立回復宣言を受け、ソ連政府は経済封鎖を実施。さらに1991年1月13日KGB特殊部隊アルファ部隊ヴィリニュスのテレビ塔を攻撃、13人の市民が殺された(血の日曜日事件[35]

世界の複数の国は、ソ連によるリトアニア併合を国際法的に否認したままであった(バルト諸国占領#歴史的考慮を参照)。リトアニアによる独立回復宣言を受けて、1991年2月4日アイスランドが世界に先駆けてリトアニアの独立を承認。その後、8月にソ連の首都モスクワでのクーデターが企てられ失敗に終わると、9月6日、ソ連もリトアニアの独立を承認した。これによりリトアニアの独立は多くの国によって承認されるようになり、また9月17日にはエストニア、ラトビアとともに国際連合に加盟した。なお、独立回復後は、エストニアやラトビアとは異なり、残留ロシア人に対しほぼ無条件でリトアニア国籍を与えている。

1991年12月25日ソビエト連邦の崩壊後、ソ連軍の主力はロシア連邦軍に継承されたが、1993年8月31日、ロシア連邦軍は全てリトアニアから撤退した。その後のリトアニアは西欧諸国やアメリカ合衆国との結びつきを強めており、1994年北大西洋条約機構(NATO)に加盟申請した。計画経済から自由経済へ移行したあと、2004年3月29日にNATOへ加盟。さらに同年5月1日には欧州連合(EU)への加盟を果たした。

2009年5月17日大統領選が行われ、EUの財政計画・予算担当欧州委員を務めるダレ・グリーバウスカイテ元財務相が圧勝し、リトアニア初の女性大統領に選出された。グリーバウスカイテは2014年の大統領選で再選を果たした。

2015年にそれまでの通貨リタスに代わり、ユーロが導入された。

2018年7月5日、経済協力開発機構(OECD)に加盟した[36]


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  95. ^ 「リトアニアのゴールボール代表が日本代表と試合」東愛知新聞(2020年4月28日配信)
  96. ^ [1]






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