演義とは? わかりやすく解説

えん‐ぎ【演義】


演義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/16 07:45 UTC 版)

演義(えんぎ)とは、主に明清の中国で発展した白話小説の一種。




「演義」の続きの解説一覧

演義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 14:14 UTC 版)

夏侯覇」の記事における「演義」の解説

小説『三国志演義』では夏侯淵長子となっているが、字の「仲権」が次男であることを示すため矛盾生じている(伯仲叔季)。初登場長坂の戦いで、張飛突き落とされ河へ転落する。ただしこの「夏侯覇」は、同姓同名別人という見方もあり、版本によっては「夏侯傑」という完全な別人として登場している。同一人物であったとしてもその後は、諸葛亮の北伐に際して司馬懿により推挙されるまで20年上もの間、出番がない。 蜀に亡命してからは、姜維参謀として北伐幾度となく参加するが、第八回目戦いで空城の計にかかり戦死してしまっている。

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演義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 03:36 UTC 版)

黄承彦」の記事における「演義」の解説

小説『三国志演義』では夷陵の戦い後に蜀軍追撃した呉の陸遜は、諸葛亮準備していた魚腹浦という石陣に入り抜け出せられなくなった。そこに老人黄承彦現れ石兵八陣八陣図』に嵌らないよう助け出し追跡をやめ引き上げた。なお、吉川英治小説『三国志』では、黄承彦ではなく彼の友がその役割担っている

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演義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/08 15:21 UTC 版)

穆桂英」の記事における「演義」の解説

初登場は、楊家当主楊延昭となった物語中盤ころ。 穆柯寨に住む山賊木羽一人娘七十二座天門陣を破るため、楊家将の孟良が降竜木を求めて穆柯寨を訪れずれると彼を撃退し、さらに楊宗保捕虜にとる活躍見せる。しかし、楊宗保美男子だったので、「私と結婚しないと殺す」と脅迫し楊宗保結婚するその後楊家将参加もせずいたところ、孟良が穆柯寨に放火し、降竜木を盗んで逃走。このとき、家族が皆死んでしまい、怒り狂うものの、死んでしまったものは仕方がない、と楊家将加入することになる。 その後穆桂英楊宗保との結婚反対楊延昭(宗保の父)を一騎討ち打ち負かしなしくずし的に結婚認めさせた。令婆のみが穆桂英を孫の嫁にふさわしい人物だ、と言って喜ぶ描写があり、京劇などもこういう設定になっていることが多い。 七十二座天門陣やぶりの戦いでは、特に鉄門陣の攻略逸話が有名。この戦いで身重だった姑の郡は敵将との交戦中、産気づき、出産苦痛意識失ってしまう。そこに現れ穆桂英敵将討ち取ると、穆桂英赤子を懐に入れ、さらに戦闘続行。その状態で青龍陣をも攻略している。著作権など概念のない時代のことであり、この逸話『三国志演義』長坂の戦い趙雲主君の子供を懐に入れながら獅子奮迅の活躍をした逸話継ぎ足したものと考えられている。そのためか、このとき生まれた赤子以降登場することはない。 西夏との戦いまでには既に死去しており、登場はしない。そのため、楊家寡婦束ねるのは彼女の娘、楊宣娘となっている。

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演義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 03:34 UTC 版)

路招」の記事における「演義」の解説

小説『三国志演義』では路昭ろしょう)」の名で登場する史実通りに、朱霊共々劉備袁術討伐随行するよう、曹操から命じられる。しかし、劉備指示従い、軍を残したまま朱霊2人だけで許に帰還してしまったため、曹操怒りを買い、処刑されそうになる荀彧諫言したため2人は赦されている。以降登場しない

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演義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 05:58 UTC 版)

文醜」の記事における「演義」の解説

小説『三国志演義』では身の丈8尺、顔は獬豸(かいち、伝説上の神獣のような姿とされる顔良とは兄弟同然親友という設定。 界戦い前後から登場する。界戦いで公孫瓚向かって突進し、後一歩でこれを生け捕るところまで追い詰めるが、袁紹の下から出奔していた趙雲阻まれ取り逃がしている。 白馬の戦い顔良討ち取られると、仇を討つために劉備と共に出陣し史実同様に輜重隊の罠にかかり敗走する。しかし、追撃してきた張遼を弓で射落とし、さらに徐晃をも退けている。だが関羽には打ち負けて逃亡時に追撃を受け背後から斬殺されてしまう。

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演義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:57 UTC 版)

任峻」の記事における「演義」の解説

小説『三国志演義』では、典農中将に任命された際等に名前が出るのみで特に活躍はない。むしろ、彼の配下の倉官として登場する王垕の方が、作中では目立っている。

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演義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 15:42 UTC 版)

夏侯楙」の記事における「演義」の解説

小説『三国志演義』では、字が子休と正史異な設定である。夏侯淵の子夏侯惇養子となっており、何の能力も無い暗愚武将として描かれている。正史同様に金儲け趣味であることにされ、その無能気位の高い所を、敵から様々に利用される役回りとなっている。蜀の趙雲魏延から「臆病で策無しの男」と酷評されたこともあってか、諸葛亮北伐開始すると自ら進んで総大将となり、程武韓徳といった諸将率いて諸葛亮対戦するが、いいようあしらわれ上で王平捕らえられてしまう(鳳鳴山の戦い)。捕虜になっている最中諸葛亮の策にかかり、姜維を蜀に寝返らせるきっかけ作っている。最後馬遵と共に羌族土地逃げそれ以降は魏に帰らないことになっている。 また後に司馬懿曹叡対し夏侯淵の子達(覇・威・和・恵)を従軍させたいと言った時に曹叡が「その者達は胡(えびす、この際は羌を指す)に逃亡して戻らぬ夏侯楙将軍比べてどうなのか」と質す場面がある。

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