1970年代-1980年代前半・Nゲージ新規参入メーカーとNゲージブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 01:52 UTC 版)
「Nゲージ」の記事における「1970年代-1980年代前半・Nゲージ新規参入メーカーとNゲージブーム」の解説
1960年代から1970年代初頭まで関水金属が日本でほぼ唯一のNゲージメーカーだった。デパート等の売り場では、西ドイツのアーノルト、ミニトリックス、イタリアのリマ等の海外製品が輸入販売された。関水金属が発売した日本形も限られていたため、日本で最初期にNゲージを購入した世代は海外製品を日本型に見立てたりあるいは無国籍的に楽しんだ。モデラーのなかには改造や自作により製品にない形式を製作する者も現れ、模型雑誌での作品の掲載を通してNゲージの車輛工作も徐々に浸透していった。 1974年に玩具メーカーのトミー(現タカラトミー) がトミーナインスケールブランドで日本型車輌の製品化を開始した。当時、トミーはアメリカのバックマン(Bachmann)のNゲージ製品を輸入販売していたことから、線路やストラクチャー(建物)は、バックマン製品をトミーナインスケールパッケージに変更して流用した。製造メーカーはバックマン製品と同様、香港のケーダーである。 1975年には、既に西ドイツのミニトリックスのNゲージ製品の輸入発売元であった学習研究社が、ミニトリックスのモーターを使用した新幹線0系電車を発売して日本型Nゲージに参入、以降特急形電車の国鉄583系電車、国鉄485系電車や国鉄EF57形電気機関車を発売した。 1970年代半ばには東京・板橋の模型店ホビーショップMAXがオハ61系客車のプラ製組み立てキットでNゲージに参入。まもなくグリーンマックス(GREEN MAX)と改名し、客車や電車、日本型建造物のキットの製品化をすすめた。 1975年に関水金属から発売されたキハ82系は、側面窓から見えない薄型動力ユニット、はめ込み式窓ガラス、ライト点灯構造を採用するなど、画期的な構造を持つ製品であった。これらの構造は自社の後続製品にとどまらず、他社製品においても後に採用するところとなり、現在においては日本形Nゲージ車両の標準的な製品構造となっている。このような関水金属の細密度向上への努力は他社製品にも影響を与え、日本型Nゲージ全体の品質向上にも寄与している。 1976年、トミーは、従来の「トミーナインスケール」に代えて、ブランド名を「TOMIX(トミックス)」とした。製品についても海外生産依存を改め、日本国内での生産を始め、日本形ストラクチャーも積極的に製品化した。特に自社開発による道床付レールシステムは、Nゲージ普及のきっかけを与えた。 1978年、16番/HOゲージメーカーであるエンドウが、金属プレスを主体とした構成でNゲージに参入。国鉄EF58形電気機関車と道床付線路システムを発売する。その後の製品展開は、国鉄24系客車、キハ30系気動車、国鉄9600形蒸気機関車、国鉄201系電車といった国鉄型車両から、近鉄3000系電車、東京都交通局10-000形電車、京王5000系電車 (初代)など私鉄電車にまで及んだ。同社製品は金属製品ならでは表現が評価された反面、組立に手作業(はんだ付け)があるため他社のプラ製Nゲージと比較して割高であることもあり、主流にはなれなかった。 同じ1978年には、16番/HOゲージメーカーである、しなのマイクロが金属製のED17、ED15などの旧型電機シリーズで参入。プレスを主体としたエンドウに対し、エッチング技術主体の製品構成をとり、その後、フライホイール付き動力を開発して、国鉄157系電車、阪急6300系など新型電車も製品化した。金属製品は、どうしてもプラ製品に比べて割高であることもあり、同社はプラ製品への移行をも計画していたが、1980年に倒産してしまう。 しなのマイクロのNゲージ部門は、プラモデルメーカーの有井製作所に引き継がれマイクロエースとして活動を再開した。マイクロエースはプラ製完成品で国鉄EF64形1000番台電気機関車、国鉄ED78形電気機関車、国鉄185系電車、10系軽量客車を発売した。 1979年、永大が「エーダイ・ナイン」のブランド名で参入、国鉄キハ58系気動車、国鉄EF65形電気機関車1000番台(PF形)、国鉄14系客車15形といった車輌をプラスティック完成品で製品化したほか、駅舎とホームを含めたプラ製道床付線路システムも発売したが、1980年に倒産した。永大のNゲージ製品は学習研究社が引き取り「GAKKEN N」として自社の製品ラインナップに加えた。永大が倒産時に製品化準備中だった国鉄キハ55系気動車、国鉄EF60形電気機関車も学習研究社から発売されている。学研はその後、サウンドシステムや2列車同時運転が可能な「ICSコントロールシステム」、レイアウトベース「エヌランド」といった運転関連の製品を開発した。 イタリアのメーカー、リマが国鉄485系電車を発売したのもこの頃で、海外のメーカーが自社ブランドで日本型のNゲージを模型化することは、非常に珍しい。 1980年代に入り、やはり16番/HOゲージメーカーである中村精密が、ホワイトメタルを多用した金属製蒸気機関車でNゲージに参入し、国鉄制式機を中心に多くの形式を製品化した。同社はまた、国鉄スハ32系客車を中心に旧型客車をプラスティックキットの形態で多く製品化したが、業務を縮小したことにより結局数年で新製品の開発を停止した。同社の客車キットの金型はMODEMO(ハセガワ)に引き継がれ、現在では組立済み完成品として販売されている。 キ620形除雪車を、プラスチック製完成品で発売したモア(MORE)や、プラモデルの技術を生かして本格的なNゲージの近鉄30000系電車プラキットを製品化したオータキも、Nゲージ市場の拡大にあわせて参入したメーカーであるが、ともに一作のみで終わっている。また、プラモデルメーカーの童友社も、バックマン製のアメリカ型車輛と線路、電池を電源とするコントローラーをセットしたNゲージセットを発売した。家庭用電源を使わない、より玩具的で平易なNゲージシステムであった。 この頃から工作派ファン向けに改造パーツも発売されている。乗工社からはD51形重装備パーツ、C62 2改造パーツ、さらにEF65形500番台にホワイトメタル製の貫通扉を貼り付けるEF65形1000番台改造パーツが発売され、銀河モデルからは、信号煙管や常磐線用列車無線アンテナ等の細密加工用のパーツが発売されている。乗工社は金属製の車体キットも製品化している。同様の製品は奄美屋やエンドウ、しなのマイクロからも発売されていたほか、中村精密は同一形式の蒸気機関車をキットと完成品の両方で発売している。 1970年代後半から「L特急・ブルートレインブーム」が起こり、ブームの影響からNゲージ製品にも注目が集まった。それに伴い鉄道模型、とりわけNゲージをテーマとした書籍が子供向けから大人向けまで何冊も一般の出版社から刊行され新聞にNゲージの通信販売の広告が載るなど鉄道模型界以外の企業も参加した大きなムーブメント、「Nゲージブーム」となった。プラモデルメーカーのフジミ模型・バンダイ・アオシマからも、NゲージサイズのL特急やブルートレインのプラモデルが発売される。 Nゲージブームによって増大したファンの中には若年層も多く見られ、鉄道模型誌のレイアウトコンテスト等にも10代の応募者も見られた。小・中学生にもブームは波及し、この時期、友達同士で集まって車両や線路を持ち寄り、Nゲージで遊ぶことが日常的に行われていた。 1978年末に日本Nゲージ鉄道模型工業会が発足し、1979年に東京の科学技術館、大阪科学館で「日本鉄道模型ショウ」を開催した。鉄道模型ショウは、その後も開催され続ける恒例行事になっている。 このように、ブームにより飛躍的に普及したNゲージであるが、盛り上がりは一時的なものにとどまった。
※この「1970年代-1980年代前半・Nゲージ新規参入メーカーとNゲージブーム」の解説は、「Nゲージ」の解説の一部です。
「1970年代-1980年代前半・Nゲージ新規参入メーカーとNゲージブーム」を含む「Nゲージ」の記事については、「Nゲージ」の概要を参照ください。
- 1970年代-1980年代前半Nゲージ新規参入メーカーとNゲージブームのページへのリンク