関連事例
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「学校における働き方改革」の記事における「関連事例」の解説
以下、公務災害認定を受けた事例、認定を受けなかった事例も含めて記載する。また、過労死と、公務に起因する自殺とは明確に区別できない境界事例もあるので、年代順に記載する。 1998年8月、仙台市立中学校男性教諭(享年36)は、仙台で開催された全国中学校バドミントン大会に従事している大会期間中、滞在中のホテルの自室において縊死自殺した。地方公務員災害補償基金宮城県支部長は中体連関連業務は公務とは認められず、特に過重な職務に従事したものとは認められず、本件災害と公務との相当因果関係を否定し公務外災害として公務債が認定を却下した。中体連関連業務は公務にあたるものと判断され、長時間労働の事実を認め、自殺は公務に起因するものであるとされた。 2004年9月、静岡県磐田市立小学校の新任女性教諭(享年24)が4年生のクラスを担任しクラスで児童が暴れる、暴言を吐くなどで学級崩壊が起こり該当男児の母から登校も考えると言った非難を受けた翌日に自家用車内に火を付け、焼身自殺した。公務災害ではないとの地方公務員災害補償基金静岡支部の認定取り消しを求め両親起こした訴訟の判決で、静岡地裁は公務災害否定の認定を取り消した。 2007年6月横浜市立中学校の保健体育の男性教諭(享年40)は二泊三日の修学旅行直後にくも膜下出血を起こし、死亡した。朝7時台のサッカー部部活朝練から夜9時までの残業、帰宅後も資料作成があり月208時間の残業が確認されたが、公務災害は97時間分で101時間は自主的活動であり仕事とは認定されなかった。 2011年、堺市で教員2年目の市立中学男性教諭(享年26歳)が心臓の急激な機能低下により倒れ死亡した。その後、地方公務員災害補償基金に公務災害(労災)による死亡と認定された。学校内では残業は月61~71時間だったが、残された授業や部活の資料から独り暮らしの自室でも相当数の残業を行ったと認められた。 2016年石川県野々市では市立小学校女性教諭(享年51歳)が勤務中に倒れてくも膜下出血で死亡した。学年主任を務め、担任の産休などで残業が重なった中、校内での研究会中に意識不明になり後急逝した。遺族は過重な勤務が原因として公務災害を申請したが、倒れる直前は冬休みの影響か4週間で20時間ほどだったため否認された。 2018年、福井県若狭町の公立中学校の新任男性教諭(享年27)が2014年に長時間過重労働で自殺したのは、校長が安全配慮義務を怠ったためだと遺族が県と町に損害賠償を求め提訴したのに対し学校側は「自主的な残業」と主張。地方公務員災害補償基金県支部は長時間労働による精神疾患が自殺の原因として公務災害と認定した。教諭は日記の表紙に「疲れました。迷わくをかけてしまいすみません」と書き残していた。遺族が起こした損害賠償訴訟では福井地裁では県と町に約6500万円の支払いを命じた。 東京都内市立小学校では2年担任の新任女性教諭(享年23)が公務に起因してうつ病に罹患して自殺したとして、両親が公務外認定処分の取消を求めた裁判で労働者側が勝訴した事件も起こっている(東京高裁平成29年(2017)2月23日判決)。児童の万引き事件での保護者からの恫喝や同家庭の給食費・教材費の滞納、学級内での度重なる上履きや体操着隠しが起こり心理的負担が増大し、学校内での支援体制についてはトラブルを校長に相談すると「あなたが悪い」と怒られ、言えずにいると後で報告しなかったことを叱責され、どちらにしても怒られると悩み同僚に相談していた。保護者から「結婚も子育ても未経験」と言った批判や、校長から親から信頼できないとの意見があると伝えられ精神的に追い込まれており、「無責任な私をお許し下さい。すべて私の無能さが原因です」とする遺書を残していた。しかし弁護士によると公務が原因とみられる自殺も遺族が公務災害を申請すること自体がまれと報道されている。
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関連事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 02:40 UTC 版)
ハンドパワーで病気を治すなどと謳いセミナーを行ってきた「アースハート」社(代表・野中邦子)に対して、損害賠償を求める訴訟が起こされ、2014年3月28日に、同社に賠償を命じる判決が下った。 ニューヨーク大学看護学教授のドロレス・クリーガーは、アメリカ神智学協会会長を務めた心霊治療家(ヒーラー)のドラ・クンツ(英語版)と共に、時代遅れと考えられていた手かざし療法(タッチセラピー)を科学的な治療法として体系化して「セラピューティック・タッチ」と名付け、手術の補助手段として用いた。クリーガーは、ハンガリー人のオスカー・エスタバニー大佐という、祈るだけでペットの病気を治し、脱脂綿を磁化してエネルギーを発するようにすることができるという人物の下で修業して手かざしの力を身に着け、手かざしで患者の赤血球中に含まれるヘモグロビンの構成要素を大きく変化させるといった力を身に着けたという。著作ではダウジングや、手かざし療法で医療機器を治すといった高度なテクニックを紹介し、「手かざし療法」は信頼できる科学的な理論に裏付けられた重要な医療技術になったと宣言した。クリーガーは、セラピューティック・タッチの効用を実証したことに対して1998年度のイグノーベル科学教育賞を受賞している(「実証」というのは無論皮肉である)。セラピューティック・タッチの科学的な実証は、1996年の9歳の少女エミリー・ローザ(英語版)による科学博覧会(英語版)(アメリカの自由研究コンテスト)での検証を機に科学者による検証が進み、現在では否定されている(エミリー・ローザの科学博覧会の研究をもとにした論文が『アメリカ医学協会ジャーナル』に掲載されたことで、アメリカでは「手かざし療法」という言葉が一般に広まった)。
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