赤福社長・会長として
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慶應義塾大学経済学部卒業後、1960年4月に赤福入社。同年9月に取締役専務となり、1968年11月、ますの後継として代表取締役社長となった。 赤福は強気の駆け引きで知られていた。1960年、入社したばかりの益嗣は近鉄宇治山田駅での販売交渉を行った。赤福の呈示した駅へのリベートは10%で、ライバル企業の呈示した27%より遙かに低いものだった。益嗣は「3倍売る」と強調したが、駅側とは折り合わなかった。しかしますは「それで良い。商いは一度断らんといかんこともある。神さんがついているから、ジタバタするな」と助言した。交渉は半年にも及んだが、ついに駅側は年15万円の“冥加金”支払を条件に赤福に折れた。直接交渉したのは益嗣らであったが、実際はますと駅側の真剣勝負であり、交渉で安易に妥協しない姿勢を学んだという。 当時の赤福は伊勢市の名物として知られてはいたが、生ものであるため販売地は伊勢市周辺に限られていた。益嗣は専務になると、「給与倍増計画」と銘打って拡大路線に転換。1961年から5年間で、従業員の給与を2倍、売上を10倍に増やす計画を立てた。時の池田勇人内閣の政策である所得倍増計画より先に考えついたと益嗣は述べている。計画達成のため、赤福は近鉄沿線の京都・大阪・名古屋への拡販、テレビ・ラジオへのコマーシャル、包装作業の機械化などを実施した。また赤福拡販のため名古屋と大阪にも製造工場を作った。ただし、あまりに販路を広げすぎても伊勢名物としてのありがたみが薄れるために全国展開はしなかった。1965年に1960年の年商8400万円から10倍以上の8億6000万円を達成。計画よりも1年早かった。また同年益矢食品(後のマスヤ)を設立し社長に就任し、「おにぎりせんべい」を開発した。1968年には当時の年商12億を上回る12億4000万円を投じて小俣に製造工場を作り、これも西日本を中心に拡販に成功した。しかし『伊勢新聞』によれば、ロシア料理店やスペイン料理店などを失敗させており、拡大路線がすべて成功したわけではない。現在は中華料理店やイタリア料理店などが営業中である(「赤福餅#関連企業」参照)。 こうした拡大路線の裏で、赤福餅の大量生産により賞味期限内に売りさばくことが難しくなってゆき、やがて製造日などの偽装に手を染めることになる。2007年になって報じられた内容によれば(「赤福餅#消費期限及び製造日、原材料表示偽装事件」を参照)、1973年の第60回神宮式年遷宮での観光客増に対応するため、密かに冷凍したものや、前日製造の赤福を作りたてと偽り販売するようになった。『日本経済新聞』によれば、さらにそれ以前(1967年頃)から偽装を始めていたという((10/23)赤福改ざん、40年前から――「まき直し」「先付け」など)。益嗣は「売れ残りを出さない」ために偽装工作をシステム化させ、「まき直し」「むきあん」「むきもち」などの社内用語ができていった。もっとも、益嗣は後年、偽装は「(当時の)幹部ら」が主導したと主張している。 赤福本店は内宮の門前町、おはらい町に構えていた。しかし自動車の普及(モータリゼーション)で内宮に直接乗り付ける参拝客が増え、おはらい町の観光客数は年間10万人に低迷した。商店は減り、「サラリーマンの家ばかり」になっていた。赤福の年商は130億円に達していたが、ここで益嗣は再び賭に出た。本社の周辺、約2400坪、60数軒を6年かけて買収し、総額140億円をかけて江戸時代の町並みを再現した「おかげ横丁」を誕生させたのである。また「おはらい町」の通りも江戸時代を再現するために、伊勢伝来の木造建築への統一や電柱の地下化を推進した。「おかげ横丁」は第61回神宮式年遷宮の行われた1993年(平成5年)に開業し、2006年には年間356万人の観光客を集めるまでになった(「入込客数調査地点別ベスト10(延数)」)。おかげ横丁の成功は観光開発の成功例として全国的にも注目を集め、2002年12月26日には、国土交通省の「観光カリスマ百選」に最初に選ばれた11人の一人となった。 こうした事業の成功から、益嗣は伊勢市の経済面ばかりでなく政治や社会においても強大な影響力を持つようになった。1975年に日本青年会議所副会頭に就任し、1995年には伊勢商工会議所会頭となった。『伊勢新聞』によれば、この頃から益嗣は取材に対しても尊大な態度が顕著になり、反っくり返った姿勢でインタビューに応じる様が写真に掲載されることも増えた。市政に対しても頻繁に介入し、1996年の市長選では4選を目指す水谷光男市長の来賓あいさつで「これで水谷さんも終わりでしょうから」と発言して水谷を怒らせたり、益嗣が創刊した伊勢商工会議所の機関紙(現存せず)では、市長を大番頭に市の部長を手代にたとえて批判して見せた。また、伊勢神宮からも伊勢財界の代表として扱われ、1993年の第61回遷宮では、伊勢財界を代表する特別奉拝者として遷御の儀に招待された。2005年には、都市計画を巡って加藤光徳市長(水谷の後任)と対立し、市長選では自民党推薦の奥野英介(現・県議、元旧小俣町長)を三ツ矢憲生と共に支援して激しく争った。加藤は僅差で再選したが、その後も両者の確執は続く。翌年の加藤の自殺には両者の対立が背景にあったのではないかと取りざたされた。 2005年10月、赤福社長職を長男の典保に譲り会長となったが、代表権は益嗣が持ち依然として実権を握っていた。2007年5月にはJR参宮線を廃止し、伊勢車両区を駐車場に転用するよう提言し、物議を醸した。『朝日新聞』2007年5月26日付の「“参宮線廃止、駐車場に”赤福会長、式年遷宮控え提案」によると、益嗣はJR参宮線を廃止して1000台規模の駐車場を整備すべしと提言した。2月の段階で、森下隆生・伊勢市長や、地元選出国会議員らとの会合などで、廃止を提言したという。森下市長は「1年間交通量調査をする。結果を待ってほしい」と述べた。また当時のJR東海社長の松本正之に存続を訴える伊勢市議が出るなど、波紋が広がった。松本は地元伊勢市の出身である。その後、後述の偽装問題による役職からの辞任もあってこの話題は立ち消えとなり、第62回式年遷宮当年の2013年以降も参宮線は運行を継続している。 こうした言動が批判される一方で、公共施設などへの寄付を積極的に行ってきたこともあり赤福を伊勢市になくてはならない存在と認識する市民も多かった。赤福のみならず、多数の関連企業によって直接間接に影響力を持つに至っていたのである。
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