赤禰武人の帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
12月8日、赤禰武人が萩より長府に帰還した。赤禰武人は、藩政府は「五卿が安全に九州へ移った場合、諸隊の存続ならびに藩士への取り立てる事」を約束したと伝え、諸隊は萩藩政府に恭順するべきであると提案した。 公爵山縣有朋伝によれば、建言書で求めた武備恭順や藩政改革については無回答であり、また野山獄に収容された正義派高官についても回答なかった為、談判は失敗と見なされたようである。赤禰の談判の内容に満足出来なかった山縣ら諸隊幹部は衆議を行い、事後策として五卿の内の一人を奉じて萩へ赴き、藩主へ正義派高官の釈放や武備恭順を直訴する案を検討する。赤禰武人はこれに反対し、正義派と俗論派の和解を目指す両派混同論をしきりに説いた。また独断専行の多い高杉の帰隊を拒否した。しかし諸隊幹部は高杉を歓迎しており、この点において赤禰は無視されたという。 防長回天史によれば同日、萩藩政府は福岡藩の斡旋に謝辞を示すため福岡藩へ使者を送ったとある。諸隊隊士はこれを知り、月形ら福岡藩士に俗論派の使者を暗殺するよう依頼したという。このように正義派の俗論派に対する不信感は拭い難く、五卿の九州行きは拒否され続け、月形と諸隊の話し合いは平行線を辿る。月形は事態打開のため、小倉の西郷に馬関へ赴くよう依頼した。 上記のように、功山寺挙兵の後に編纂された史料には細部に矛盾があるものの、諸隊が俗論派・征長軍(福岡藩・長州藩)の説得を受け入れなかったとするものが多い。しかし研究者の中には、複数の諸隊が両派混同論を受け入れ、藩政府に恭順したとする者がいる。後述するが残された史料から推察すれば、多くの諸隊が一度は藩政府と征長軍の説得を受け入れ恭順した可能性が高い。 同日、総督府広島本営は諸侯の幹部を参集させ、長州の戦争回避の条件履行がスムーズに行われていることを説明した。ただ軽すぎる処分に反発していた越前藩や熊本藩は、総督府に戦争回避の条件が履行されているか確認するよう求めた。総督府は尾張藩士と江戸幕閣を巡見使として派遣し、長州藩内を査察して、条件が履行されているか確認することとした。 12月11日、西郷隆盛は小倉を発し馬関に至り、月形および『諸隊の長官』と『謀議』した後、すぐに小倉に引き返す。この時の『謀議』とは諸隊説得についての相談であり、『諸隊の長官』は赤禰武人であるとも、高杉晋作であるとも言われているが、現在まで確定されていない。 12月12日、月形はさらに五卿の元を訪ね西郷との『謀議』の内容を伝えた。五卿は衆議した後、九州行きに同意した。上述の通り謀議の内容は不明であるが、三條は月形へ『極密談合之件々 委細聞届候 当藩内輪之紛乱鎮静之効験相立次第 筑藩へ渡海之儀令決定候』と書き残しており、赤禰らの諸隊説得が成功しつつあった事を示唆している。またこの時期の『小倉在陣日記』にも、『近頃長州の内にて奇兵隊之者 萩方と五卿附属方と二ツに相別れ』とあり、奇兵隊が切り崩されて分裂し、萩藩政府側についた者がいた事を示している。 月形は小倉の西郷に急使を送り、五卿が九州移送を同意したことを伝え、西郷は月形へ返答の使者を送り、五卿に九州移送の日取りを決めるよう求めた。
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