赤福社長・会長としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 赤福社長・会長としての意味・解説 

赤福社長・会長として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 04:17 UTC 版)

濱田益嗣」の記事における「赤福社長・会長として」の解説

慶應義塾大学経済学部卒業後、1960年4月赤福入社同年9月取締役専務となり、1968年11月、ますの後継として代表取締役社長となった赤福強気駆け引き知られていた。1960年入社したばかりの益嗣は近鉄宇治山田駅での販売交渉行った赤福呈示した駅へのリベート10%で、ライバル企業呈示した27%より遙かに低いものだった。益嗣は「3倍売る」と強調したが、駅側とは折り合わなかった。しかしますは「それで良い商い一度断らんといかんこともある。神さんがついているからジタバタするな」と助言した交渉半年にも及んだが、ついに駅側は年15万円の“冥加金支払条件赤福折れた直接交渉したのは益嗣らであったが、実際はますと駅側の真剣勝負であり、交渉安易に妥協しない姿勢学んだという。 当時赤福伊勢市名物として知られてはいたが、生ものであるため販売地は伊勢市周辺限られていた。益嗣は専務になると、「給与倍増計画」と銘打って拡大路線転換1961年から5年間で、従業員給与を2倍、売上10倍に増やす計画立てた時の池田勇人内閣の政策である所得倍増計画より先に考えついたと益嗣は述べている。計画達成のため、赤福近鉄沿線京都・大阪・名古屋への拡販、テレビ・ラジオへのコマーシャル包装作業機械化などを実施した。また赤福拡販のため名古屋大阪にも製造工場作った。ただし、あまりに販路広げすぎても伊勢名物としてのありがたみ薄れるために全国展開はしなかった。1965年1960年年商8400万円から10倍以上の8億6000万円達成計画よりも1年早かった。また同年益矢食品(後のマスヤ)を設立し社長に就任し、「おにぎりせんべい」を開発した1968年には当時年商12億を上回る124000万円投じて小俣製造工場作り、これも西日本中心に拡販成功した。しかし『伊勢新聞によればロシア料理店やスペイン料理店などを失敗させており、拡大路線がすべて成功したわけではない。現在は中華料理店イタリア料理店などが営業中である(「赤福餅#関連企業参照)。 こうした拡大路線の裏で、赤福餅大量生産により賞味期限内に売りさばくことが難しくなってゆき、やがて製造日などの偽装手を染めることになる。2007年になって報じられ内容によれば(「赤福餅#消費期限及び製造日、原材料表示偽装事件」を参照)、1973年第60回神宮式年遷宮での観光客増に対応するため、密かに冷凍したものや、前日製造赤福作りたて偽り販売するようになった。『日本経済新聞によれば、さらにそれ以前1967年頃)から偽装始めていたという((10/23)赤福改ざん40年前から――「まき直し」「先付け」など)。益嗣は「売れ残り出さない」ために偽装工作システム化させ、「まき直し」「むきあん」「むきもち」などの社内用語ができていった。もっとも、益嗣は後年偽装は「(当時の)幹部ら」が主導した主張している。 赤福本店内宮門前町おはらい町構えていた。しかし自動車普及モータリゼーション)で内宮直接乗り付ける参拝客が増えおはらい町観光客数年間10万人に低迷した商店減り、「サラリーマンの家ばかり」になっていた。赤福年商130億円に達していたが、ここで益嗣は再び賭に出た本社周辺、約2400坪、60数軒を6年かけて買収し総額140億円をかけて江戸時代町並み再現したおかげ横丁」を誕生させたのである。また「おはらい町」の通り江戸時代再現するために、伊勢伝来木造建築への統一電柱地下化推進した。「おかげ横丁」は第61回神宮式年遷宮行われた1993年平成5年)に開業し2006年には年間356万人観光客集めるまでになった(「入込客調査地点ベスト10(延数)」)。おかげ横丁成功観光開発成功例として全国的に注目集め2002年12月26日には、国土交通省の「観光カリスマ百選」に最初に選ばれ11人の一人となったこうした事業の成功から、益嗣は伊勢市経済面ばかりでなく政治社会においても強大な影響力を持つようになった1975年日本青年会議所会頭就任し1995年には伊勢商工会議所会頭となった。『伊勢新聞によればこの頃から益嗣は取材に対して尊大な態度顕著になり、反っくり返った姿勢インタビュー応じる様が写真掲載されることも増えた市政に対して頻繁に介入し1996年市長選では4選を目指す水谷光男市長来賓あいさつで「これで水谷さんも終わりでしょうから」と発言して水谷怒らせたり、益嗣が創刊し伊勢商工会議所機関紙現存せず)では、市長大番頭に市の部長手代たとえて批判して見せたまた、伊勢神宮からも伊勢財界代表として扱われ1993年第61回遷宮では、伊勢財界代表する特別奉拝者として遷御の儀招待された。2005年には、都市計画巡って加藤光徳市長水谷後任)と対立し市長選では自民党推薦奥野英介(現・県議、元旧小俣町長)を三ツ矢憲生と共に支援して激しく争った加藤僅差再選したが、その後両者確執は続く。翌年加藤自殺には両者の対立背景にあったではないか取りざたされた。 2005年10月赤福社長職を長男の典保に譲り会長となったが、代表権は益嗣が持ち依然として実権握っていた。2007年5月にはJR参宮線廃止し伊勢車両区駐車場転用するよう提言し物議を醸した。『朝日新聞2007年5月26日付の「“参宮線廃止駐車場に”赤福会長式年遷宮控え提案」によると、益嗣はJR参宮線廃止して1000規模駐車場整備すべしと提言した2月段階で、森下隆生・伊勢市長や、地元選出国会議員らとの会合などで、廃止提言したという。森下市長は「1年間交通量調査をする。結果待ってほしい」と述べた。また当時JR東海社長松本正之存続訴え伊勢市議が出るなど、波紋広がった松本地元伊勢市出身である。その後後述偽装問題による役職からの辞任もあってこの話題立ち消えとなり、第62回式年遷宮当年2013年以降参宮線運行継続している。 こうした言動批判される一方で公共施設などへの寄付積極的に行ってきたこともあり赤福伊勢市なくてはならない存在認識する市民多かった赤福のみならず多数関連企業によって直接間接に影響力を持つに至っていたのである

※この「赤福社長・会長として」の解説は、「濱田益嗣」の解説の一部です。
「赤福社長・会長として」を含む「濱田益嗣」の記事については、「濱田益嗣」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「赤福社長・会長として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「赤福社長・会長として」の関連用語

赤福社長・会長としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



赤福社長・会長としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの濱田益嗣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS