購入から第一次世界大戦まで
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「トゥルグート・レイス級装甲艦」の記事における「購入から第一次世界大戦まで」の解説
本級は、購入前の1901年の近代化改装で老朽化した機関の換装、副砲の2門増加、魚雷発射管の水面下移設等の改装を行っており、この状態で1910年8月にオスマン帝国海軍に購入された。 購入後の本級はトルコ艦隊に属したが、本級を戦力化するためには、全体に練度が充分とはいえない艦隊の中から数少ない訓練された下士官を引き抜かねばならず、戦力化には一層の努力が必要であった。しかし、購入翌年の1911年に勃発した伊土戦争によって本級は早くも戦乱に巻き込まれた。イタリアとの開戦時に本級を含むトルコ艦隊は、7月から慣熟訓練を兼ねて黒海を出て地中海で訓練航海に出ており、9月28日の時点ではベイルート近辺で行動中で、この訓練艦隊は装甲艦「トゥルグート・レイス」「バルバロス・ハイレッディン」「メスディイェ」、駆逐艦「バスラ」「サムスン」「タショズ」「ヤルヒッサル」と水雷艇「デミルヒッサル」からなっていた。この時にイタリア海軍はトリポリを確保するために3万の兵を輸送中であり、護衛艦隊と接触すればトルコ艦隊の敗北は必須であった。 幸いにも9月30日に本国からの警報を受信できた訓練艦隊はダーダネルス海峡に急行し、10月2日にはコンスタンティノープルに帰還して難を逃れる事ができた。しかし、優勢なイタリア海軍に対してトルコ艦隊は逼塞を強いられ、1912年10月にイタリアとの戦争が終結するまで本級は全く行動できなかった。 1912年10月17日にバルカン同盟諸国との間でバルカン戦争が勃発すると、オスマン帝国艦隊はブルガリアに対して積極攻勢に出た。オスマン帝国海軍はギリシャ海軍を仮想敵として海軍を整備していたため、ギリシャより海軍力の劣るブルガリアに対しては優位に立つことができたのである。 オスマン帝国艦隊は10月19日にブルガリア沿岸部ヴァルナ(Варна)港に本級2隻と防護巡洋艦「ハミディイェ」「メジディイェ」と4隻の水雷艇を伴って艦砲射撃を敢行。ブルガリア海軍の水雷艇を撃退して、オスマン帝国艦隊は45発の砲弾を発射し、ブルガリア軍の塹壕線を破壊して士気の高揚を図った。続いて艦隊はカヴァルナに向かい、ブルガリア陸軍の物資補給所に艦砲射撃を行い、これも損害を与えた。この折に、港にいたブルガリア海軍の小型水雷艇2隻を捕獲した。この後、オスマン帝国艦隊はコンスタンティノープルに布陣した自国陸軍に対して支援行動を行った。 この時にブルガリア海軍の小型水雷艇4隻により防護巡洋艦「ハミディイェ」が雷撃を受けて大破した。意気に乗るブルガリアは陸軍で攻勢に出るが、本級を含むオスマン帝国艦隊はマルマラ海沿岸部から艦砲射撃を行い、敵軍の攻勢を挫いた。攻撃失敗により攻撃限界を迎えたブルガリア、セルビア、モンテネグロは12月3日にトルコと休戦協定を結んだ。これにより、オスマン帝国艦隊はギリシャ艦隊だけに戦力を集中することが可能となった。 ギリシャ艦隊は、10月18日から20日にかけ、ダーダネルス海峡封鎖を主目的としてリムノス島占領作戦を成功させていた。12月16日にオスマン帝国海軍によるギリシャ反攻作戦が開始され、本級の「トゥルグート・レイス」「バルバロス・ハイレッディン」2隻、装甲艦「アサル・テヴフィク」、防護巡洋艦「メジディイェ」及び駆逐艦4隻が出動した。これに対し、ギリシャ艦隊は旗艦「イェロギオフ・アヴェロフ」、イドラ級海防戦艦3隻及び駆逐艦4隻が迎撃に出動した。 オスマン帝国艦隊は9:50に射距離約1,4000mからギリシャ艦隊に向け射撃を開始した。一方、ギリシャ艦隊は速力に勝る旗艦の「イェロギオフ・アヴェロフ」と駆逐艦隊を先頭に配置し、低速のイドラ級3隻は並列配置の主砲配置を活かせる横列陣形を採り、必中を期して7,800mまで近づいてから応戦した。オスマン帝国艦隊が低速のイドラ級3隻と砲戦を行っている隙に高速の「イェロギオフ・アヴェロフ」は反対側に回り込んでオスマン帝国艦隊を両舷からサンドイッチして砲撃を開始した。この時点で劣勢を判断したオスマン帝国艦隊は9:50にダーダネルス海峡に向けて撤退を開始したが、練度に劣る艦隊はバラバラに散開してしまって味方艦同士で射界を制限し、接触の危険性もあり、各個撃破の格好となってしまった。この隙を突かれて「バルバロス・ハイレッディン」は後部甲板に命中弾を受けて、水兵5名が戦死した。その直後、3番主砲塔に直撃弾1発を受け、誘爆こそ無かったものの主砲の1/3が砲撃不能となった。機関室にも破片が進入し、損傷したボイラーから出火して炎上した。「トゥルグート・レイス」と「メジディイェ」にも被弾したが、小破程度で上部構造体が燃えた程度であった。この戦いでオスマン帝国艦隊は800発もの砲弾を発射したが、ギリシャ艦隊に対してこれといった損害は与えられず、3,000mまで接近した「イェロギオフ・アヴェロフ」に大口径砲弾1発を命中させたに留まり、装甲帯に弾き返されて損傷は与えるに至っていない。(エリの海戦)。 士気の低下を恐れたオスマン帝国艦隊は、損傷の浅かった「トゥルグート・レイス」と防護巡洋艦「メジディイェ」及び駆逐艦4隻によりダーダネルス海峡突破を狙ったが、ギリシャ艦隊が行動中であるのを発見し、撤退した。 続くレムノスの海戦では、ラムシ・ベイ大佐に率いられてダーダネルス海峡を渡ったオスマン帝国艦隊「トゥルグート・レイス」「バルバロス・ハイレッディン」と防護巡洋艦「メジディイェ」「ハミディイェ」と駆逐艦と水雷艇計13隻が、レムノス島まで13マイルの地点でギリシャ艦隊に迎撃された。ギリシャ艦隊旗艦「イェロギオフ・アヴェロフ」を発見したオスマン帝国艦隊は退却を試みたが、前回と立場が変わり、今度は長距離砲撃を受けたオスマン帝国艦隊は撤退するもギリシャ艦隊は追撃を採り、約2時間後には「イェロギオフ・アヴェロフ」に5,000mまで接近された。オスマン艦隊は友軍のダーダネルス要塞の射程まで敗走した。この戦闘で、主力艦「バルバロス・ハイレッディン」と「トゥルグート・レイス」は激しく炎上し、「バルバロス・ハイレッディン」は2番主砲塔が使用不能となり、同じく「トゥルグート・レイス」も砲塔1基が破壊された。さらに装甲艦「アサル・テヴフィク」も大破し、オスマン側の人的被害は戦死31名、負傷者82名を数えた。オスマン艦隊は大小砲弾合わせて800発を放ったが、ギリシャ艦隊にはほとんど被害はなく、1名が重傷を負っただけであった。 1913年2月8日にオスマン帝国艦隊は輸送船で陸軍の上陸作戦を支援した。「バルバロス・ハイレッディン」「トゥルグート・レイス」に数隻の巡洋艦で、砲兵隊を海上から沿岸部の1kmにかけて援護射撃を行い、陸軍の左翼を支えたが、オスマン帝国陸軍が攻め切れず撤退を開始した。ブルガリア陸軍は反撃に出たが、その先を「バルバロス・ハイレッディン」からの艦砲射撃により挫かれて反撃は失敗した。この戦いで「バルバロス・ハイレッディン」は10.5cm副砲と8.8mm対水雷艇砲合わせて180発から250発を消費した。 1913年3月に再びオスマン帝国艦隊はatalca守備隊への支援を再開し、3月26日に「バルバロス・ハイレッディン」は28cm主砲と10.5cm副砲を用いて艦砲射撃を行った。「トゥルグート・レイス」は3月30日に、撤退中のブルガリア陸軍を攻撃するオスマン帝国陸軍左翼へ支援砲撃を行った。オスマン帝国軍の進軍は野戦砲と「バルバロス・ハイレッディン」の火砲により後押しされ、日暮れまでに約1,500mの進軍距離を得た。
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