購入から初飛行まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:52 UTC 版)
「ファルマン III」の記事における「購入から初飛行まで」の解説
欧州出張 1910年(明治43年)、臨時軍用気球研究会の委員であった日野熊蔵(当時31歳、陸軍歩兵大尉)と、徳川好敏(27歳、同気球隊付工兵大尉)は、機体の選定・買い付けと操縦技術習得のためフランス・ドイツに派遣された。両大尉は新橋から4月11日に出発、敦賀-ウラジオストク間を船で渡りシベリア鉄道経由でパリに渡った。5月末、アンリ・ファルマン飛行学校3校目のエタンプ校が開校し、両大尉は各国(女性1人含むフランス人4名、ロシア人3名、ほかイギリス、ドイツ、イタリア、ポーランドなど)から派遣された飛行学生ら計10数名と共に学んだ。 この飛行学校での授業内容は、1日1人につき5分間のみ、全10数回の高度約30mほどでの同乗飛行を繰り返し、生徒はインストラクターの背中に張り付くようにして同乗し右手を肩越しに伸ばして一緒に操縦桿に添え、体感で操縦を覚え、その後は単独での飛行を3回成功させれば卒業となるものだった。徳川大尉はオートバイを購入し毎朝1番に通ってこの5分間だけの飛行をこなした後は、大使館などを訪ねて機体の選定・買い付けのための情報収集や準備に奔走していたとされる。8月8日に彼は初めての単独飛行に成功し、同月10日・11日で3回を終えて卒業となり、(当時、実質上"国際"飛行免許ともされた)フランス飛行クラブ(Aéro-Club de France)発行の飛行機操縦免状を取得のため、シャロン演習場(Camp de Châlons)内のアンリ・ファルマン飛行学校(Bouy本校)に移動した。 彼はここで日本からの発注で製作されたばかりの機体を受け取った(これが後に日本でアンリ・ファルマン号と呼ばれる)。厳密には当時の三井物産が1機を購入し、これを臨時軍用気球研究会に納入するという形がとられた。当時の購入価格は2本の予備プロペラ付き(後述)で18,800円(または18,832円)と記録されている。 購入されたこの1910年式の機体は、2人乗り用の後部座席が標準装備され、機首の昇降舵は支柱幅内に収まり、上・下翼は等幅でエルロンは4枚、足下の(しばしばT-pedalと呼ばれる)補助棒はスライド式で、尾翼下には補助輪に替わり1本のかぎ状の曲棒(スキッド)があり、尾翼方向舵は2枚でその両側にロゴ文字:「H.FARMAN Constructeur Camp de Châlons MARNE 」の記載がある。 8月25日に同機で免許試験に臨んだ彼は、一周6kmのコースを離陸から着陸まで3周の飛行を成功させ、着陸するとすぐに写真を1枚撮られた。合格者の書類に添付する写真だった。彼はこうして飛行機操縦者免許状(第289号)を取得した(この免許状は実物が現存している。発行日は11月8日付)。その後は、機体は分解・梱包され9月15日にフランスから日本へ向かう「安藝丸」に積載の上船便で日本に送られた。徳川大尉は同演習場内のアントワネット飛行学校に入校し、ブレリオ機を発注し、その操縦訓練を受け始めて間もなく帰国命令が出た。延期を要請したが許可されず、ドイツに行っていた日野大尉とパリで落ち合い帰国、10月25日朝には再び新橋に到着した。 帰国後11月8日、横浜港に到着していたファルマン機の梱包を確認、これを東京中野の気球隊に運んで組み立てることになったが、当時この輸送には牛4頭と50人を動員して丸4日間かかったとされている。また発送時に徳川大尉は立ち会っていないため、組立も困難であったとされている。一方これを飛ばすための飛行場は、当時の日本にはまだ存在していなかった。機体の買い付けと平行して所沢に準備が進められていたが、予算の不足などもあり工事が遅れたため代々木錬兵場を整地して使用した。
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