貸本漫画時代
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つげが貸本漫画を描くようになったのは1955年(昭和30年)からで、急激に貸本屋が増え始め、関西発祥で東京でも1960年頃に急成長を遂げるチェーン展開をする「ネオ書房」の看板が散見されるようになる。つげが住んでいた下町でも小さな貸本屋が女店員が3-4人を抱えるほどであった。当時はまだ下町には喫茶店がなく、しるこ屋や氷屋が若者の溜まり場であったが、若い女店員を擁する貸本屋もまた若者の溜まり場となっていた。つげもまたひそかに女店員目的に作者として出入りしていたが、女店員らは本を出版物ではなく玩具に等しいものくらいとしか見ておらず、作者に対する関心も尊厳もなく、全くもてなかった。そのうちに下町にも喫茶店が普及し始めると、ウェイトレスが若い女性の花形産業となり、貸本屋から転職していった。と、同時につげもまた喫茶店に入り浸るようになった。貸本漫画家の妻に元ウェイトレスが多いのは、そういう事情であるとつげは語っている。貸本ブーム最盛期でも、つげの生活は全く向上せず、ひどいものであった。 当初は1冊分(128ページ)買取3万円で貸本漫画に数多く執筆していた。この頃、永島慎二・遠藤政治と親交を持つようになる。新漫画党の集まりにも度々参加するも人見知りが激しく、トキワ荘系の漫画家とはそれほど交流を持つことはなかったが、トキワ荘へ引っ越す前の赤塚不二夫とだけは、赤塚の部屋に出入りして漫画論を交わしたり泊まったりしていた。手塚治虫の影響を強く受けた『生きていた幽霊』(1956年)やトリック推理ものである『罪と罰』を契機として江戸川乱歩的なデカダンス風の推理ドラマをはじめ、『四つの犯罪』(1957年6月)では初めて作者の温泉への憧憬もうかがわれる。自身は『生きていた幽霊と『四つの犯罪』は当時としては斬新だったと思います。」「白土三平さんも、この頃から僕のを注目していたと思うんですよね。『迷路』なんかも保存しているんですからね。」「辰巳さんなんかも、『生きていた幽霊』や『四つの犯罪』あたりから僕を注目し出したって」としているとおり、貸本漫画家の中では人目を引く存在であり一目置かれていた。つげ自身も自覚している通り生来の短編作家であり、この2作とも短編連作である。探偵もの『七つの墓場』(1957年8月)や『うぐいすの鳴く夜』(1959年5月)、『おばけ煙突』(1958年11月)、『ある一夜』(1958年12月)(『どろぼうと少年』(1957年9月)の改作)なども描かれた。これらの作品は、ストーリーとしては完成度が高いもので、『ガロ』時代の旅ものを思わせるユーモアの片鱗をも随所にちりばめられていた。しかしながら『不思議な手紙』(1959年2月)などの暗いタッチが主流を占め、当時の貸本マンガの主要読者層だった小学校高学年〜中学生からは不評を買うこととなり、出版社からももっと明るい作風を要求された。翌1956年には早くも創作に行き詰まり、岡田晟の手伝いをするようになり、クラシック音楽とコーヒーに傾倒するようになる。J.S.バッハ以前の音楽を愛好し、特に宗教曲、ルネサンス音楽には造詣が深く、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}現在[いつ?]に至ってもモンテヴェルディ、ドラランド、シャルパンティエ、タヴァーナーなどをよく聴く。この当時は池袋の「小山」、高田馬場の「らんぶる」などの名曲喫茶へしばしば通っていた。一方で、作品に音楽が登場する場面は意外に少なく、その後の作品を含めても『四つの犯罪』、『やなぎや主人』、『散歩の日々』くらいである。 漫画家になって以降も赤面恐怖症はさらに悪化。家族とも顔を合わせるのが苦痛で部屋を仕切ったり、押入れにこもりじっとしたりしていた。通信療法も試すが効果はなかった。「女を知れば度胸が出るかもしれない」と考え、自転車で赤線へ赴く。3つ年上の女に親切にされ外へ出ると急に勇気が出たように思え、嬉しさで涙を流しながら中川の土手を自転車を走らせたが、数日して彼女に会いに行くと別の客が付いており、胸が張り裂けそうな思いをする。その後、赤線へ行くことはなかった。やがて、家を出て高田馬場に下宿する。 1957年、錦糸町の下宿に転居。女子美大生との交際や喫茶店「ブルボン」への出入りの中で仕事を怠けるようになり困窮。血液銀行へ通っての売血を経験する。こうした中、大阪から上京した劇画家の辰巳ヨシヒロと知り合う。1958年8月までは『痛快ブック』をはじめ『少女』、『漫画王』、『ぼくら』、『日の丸』という大手雑誌に続けて作品を発表しながら、若木書房から単行本『幕末太陽伝』(1958年6月)を発表。大手雑誌には後1年間の沈黙を置いて2000年に権藤晋によって再発見された『墓をほる』(31頁)を『痛快ブック』(芳文社)1959年12月号に発表。
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