『ガロ』時代
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1964年9月号から雑誌『ガロ』が発行され、1964年12月号から白土三平の『カムイ伝』の連載が始まるが、つげは『ガロ』の存在を知らなかった。 雑誌のスポンサーでもある白土が1965年4月号でつげ義春の所在を尋ね、それに応える形でつげはガロに創作の場を得ることになったという。『噂の武士』で1965年8月号の『ガロ』に初登場。 1965年、田端で行なわれた貸本漫画家の集まりで白土三平や水木しげると知り合う。 同年10月、白土はつげを励ますため、千葉県大多喜の旅館寿恵比楼に招待し、また赤目プロのアシスタントであった岩崎稔から井伏鱒二を読むよう勧められる。そこで旅館の手伝いをしていた強い方言を話す娘から強い印象を受けるなど、白土、赤目プロとの出会いと大多喜での経験は傑作『沼』を生み出す大きな刺激となり、また、この経験からつげは旅に夢中になり、のちの一連の「旅もの」作品として結実させるなどその後の作品に大きな影響を与えた。 娯楽作品意識から脱却したつげは、1966年2月号の『沼』以降、『チーコ』など作家性の強い短編群を続けざまに発表する。特に『沼』は説明を一切省いた緊密な構成で成熟前の少女の危うさと官能を描き、漫画でしか表現出来ない善悪を越えた世界を切り開いた記念碑的作品である。つげ本人も、『沼』までは苦しんで苦しんで、マンガはこうあるべきだというような常識が自分の中にあった。それが解放された気持ちになったという。『沼』からは1968年8月号の『モッキリ屋の少女』までは全てが正真正銘の傑作であり凡作が一つもない「奇跡の2年間」が始まる。しかし当時の『カムイ伝』目当てでガロを買う読者層には主に「暗い」という理由(当時の読者欄より)であまり評価されなかった。特に『沼』は不評で、マンガ家を廃業して凸版印刷の職工になろうと真剣に考えたこともある。『沼』が辰己や深井など仲間にも理解されなかったため、自作を続ける意欲が薄れ、生活のためにも、「少年マガジン」で連載を始め人手が要った水木のアシスタントをすることになり、調布に転居。実際は日当2千円という破格の報酬であり、「ゲゲゲの鬼太郎」のネームに苦しんだ水木に呼ばれ二人でオチを考えたこともあったという。本人は水木の仕事に専念するつもりであり、自作を発表するつもりはなかった。「初茸がり」(1966年4月号)も水木の「なまはげ」が予定より短くなり空いたページを埋めるために急遽まとめたもの。水木の仕事は1年半ほど続きこれにより生活の安定を得、旅行にも出かけたことで作品の構想が熟して行ったと思われる。 当時から一部マニアックな読者からは高い評価を得、1967年3月創刊の日本初の漫画批評誌『漫画主義』は、つげ義春の特集を組んだ。また、白土は初の作品集「噂の武士」(1966年12月号)に解説を書くなどつげを高く評価していたと思われる。つげ自身も「白土さんはマンガを見る目がある。マンガ家はマンガを客観的に見ることができない傾向があるけど、白土さんはそれができる人ですね。」と話している。 この頃、「今昔物語」「日本霊異記」や中国の古典(「聊斎志異」「唐代伝奇集」)をよく読む。その影響もあり1967年3月に「通夜」を発表。盗賊三人組がニセモノの死体を玩ぶ話しを、突き抜けたユーモアと完璧な構成で描き切った。池上遼一によれば、この頃は水木プロに週3日程度手伝いに来て、あと徹夜してこもって自分のもの(「通夜」や「海辺の叙景」)を描いていたという。水木とは仲が良く、一生に古本買いに行ったり古文書を探しに行ったりした。 1967年には水木プロの仕事量が増え、右手の腱鞘炎を患う。この年には井伏文学からの影響で、4月に友人の立石と秩父、房総を、8月には伊豆半島を旅し、秋には単独で東北の湯治場(蒸ノ湯温泉、岩瀬湯本温泉、二岐温泉)などを中心とした旅行をする。その際、旅に強烈な印象をもち、また湯治場に急速に魅かれるようになる。このときの旅の印象はこの年後半から翌年にかけての一連の「旅もの」作品として結実する。このころ旅関係の書物や柳田國男などを熱読する。この年にはユーモラスな世捨て人的生活の日常スケッチである『李さん一家』(6月)や、少女が大人になる一瞬を巧みな抒情詩に仕立て上げた『紅い花』(10月)、小さな村の騒動記『西部田村事件』(12月)、そして翌1968年には紀行文学のスタイルを借りた『二岐渓谷』(2月)、『長八の宿』(1月)、『オンドル小屋』(4月)などを立て続けに発表する。
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