『ガロ』以降
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同じ年に、『アサヒグラフ』の連載で紀行文を描き、夫婦で旅行をした。これをきっかけに、翌1971年には東北・瀬戸内・奈良・長野・会津へ、1972年には北部九州、1973年には長野の秋葉街道、福島の湯岐、二岐温泉を巡る旅行を行なう。この頃から、都会を離れて暮らしたいと思うようになり、千葉の大原付近の土地を物色したり、喫茶店経営を考え家賃が大変に安い六畳一間の住居付きの荻窪駅前に転居したりする。しかし開業しないまま2か月で再び調布に転居。1974年には寡作はさらに進行し、生活が困窮。この頃、注文なしに描いた『義男の青春』を双葉社『漫画アクション』へ持ち込むが、75ページの一挙掲載は不可能だから3分割するように、ついては1回24ページごとに物語の切りをつける形に直すようにと注文されショックを受ける。1975年には妻が京王閣競輪でアルバイトをするほどになる。10月には雑誌『太陽』の取材で田中小実昌、渡辺克己、編集者有川の4名で城崎温泉、湯村温泉などを周遊。11月19日には長男が誕生し、その約1ヵ月後の12月25日に正式に入籍。昔のマンガ家仲間は、つげの妻について「あんなやさしいひとは見たことがない。つげさんが結婚したとき軽い嫉妬を感じた」と述懐している。 しかし、長男の誕生は、つげにとってむしろ精神的不安定をもたらす。1976年1月24日、NHKでドラマ『紅い花』の試写会とその後の『ガロ』に掲載するための鈴木志郎康らを交えた座談会に出席するが、その帰路の電車内で初めてパニック障害様の不安発作に襲われる。3日後の27日にはNHKの佐々木昭一郎より原作料を受け取るが12万円であった。うち5万円は佐々木個人からの謝礼で、NHKの原作料は7万円であった。NHKの謝礼は学歴で決まると聞いていたつげは、自分は小学校卒だからこんなに安いのかと暗澹たる気分になる。同年に酒井荘から近くの富士マンションに転居、『近所の景色』に実名で登場する。翌1977年には弟、忠男の住む千葉県流山市江戸川台に近い柏市十余二の借家に転居、さらに1978年に調布市の多摩川住宅へと転居を繰り返す。 『ねじ式』によって、つげは芸術漫画家という烙印を押しつけられ、それによって発表の場が限られるようになってしまい、だんだん描きたいものが描けないというジレンマに陥るようになった。当時、徐々に進行しつつあったノイローゼの治療の意味もあって、つげは見た夢をノートに綴っていく『夢日記』に夢中になり、『夢の散歩』(1972年)という見た夢をそのまま漫画化するような実験を試みる。そして、1976年の『夜が掴む』以降、夢日記の漫画化を本格化。夢のシュールで漠然とした風景を描くために、つげはパースをわざと狂わせた絵を意図的に描くようになる。『アルバイト』(1977年)、『コマツ岬の生活』(1978年)、『必殺するめ固め』、『ヨシボーの犯罪』、『外のふくらみ』(1979年)、『雨の中の慾情』(1981年)などが描かれた。この当時より、女性の肉体をリアルに豊満に描く傾向が強まり、作品に独特のエロティシズムをもたらすようになる。かつてのおかっぱの少女は、若夫婦ものの妻に受け継がれるが、すでにかつてのような神秘性は失われている。これはつげ自身の述懐によれば、女性にかつてのような憧憬をもはや抱かなくなったからである。 1976年には、月刊『ポエム』(1977年1月号「特集つげ義春」)誌上で詩人の正津勉と対談し、「『ねじ式』は描くネタに困り面白半分で夢を描いてみたもので、思いあまって吐露したというような重大な作品ではなく傑作でもないが、今読み直すとすごく面白い。夢をそのままに描いたわけではなく脚色はしているが、このころは夢は夢のままに脈絡なく描く方が面白い感じていた。『ねじ式』のあと2、3本描くが、その後寡作になったのは、つげブームで金が入って怠けていたからだ」と説明。1972年の『夢の散歩』ではがらりと作風が一変したことについて、「もう黒っぽい画は描かなくなった。何か青空のようなものに魅かれるようになった」といい、その理由については「さめてしまったか、ぼけてしまったかどちらかです。重々しいよりも軽々しい方が楽しいですから」と答えた。当時の生活は昼頃に起床し、朝食兼昼食にはインスタントラーメンなどを食べ、食べることには関心がないため夕食は朝鮮漬けか納豆であった。深夜3時か4時ころまで起きてただ机に向かい、妄想に耽る日々であった。眠ってばかりいるため夢を多く見るので、夢日記だけはちゃんとつけていた。そういう生活が数年続いていたと告白している。 1977年、妻がガンにかかり、手術を行なう。結果は良好だったが、心身に不調をきたし、ノイローゼが進行し、1980年には不安神経症と診断される。森田療法を受けるが、病気の深刻さに自殺を決意。しかし、妻子がいることを思い耐える。
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