総長に就任、列聖へ
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「フランシスコ・ボルハ」の記事における「総長に就任、列聖へ」の解説
ローマに辿り着いた時ライネスは初めフランスでカトリーヌ・ド・メディシスがカトリックとプロテスタント和解のため召集したポワシー会談(英語版)に参加、次いでイタリアでトリエント公会議に出席していたため不在で、総長代理として4年間務め、1565年1月19日にライネスが亡くなると7月2日の総会でライネスの後を継いで第3代イエズス会総長に選出された。 フランシスコの総長在任期は翌1566年に選出された教皇ピウス5世の在位(1566年 - 1572年)とほぼ同じで、ピウス5世の協力の下でイエズス会の会則を追加した。他にも様々な事業の整備・追加も手掛け、ローマ学院の基盤強化と修道士の教育に尽力、ローマ学院を総長の本拠地に定め、授業計画に第一課程・第二課程の学課も決めた。またイエズス会へ用地取得資金を与え、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿が進めたジェズ教会建立を後押しした。これと並行して会の各支部に修練院を設け、1567年にローマの丘(クイリナーレ)にローマ修練院を開設、ここから熱烈な伝道者が輩出した。こうしてフランシスコの総長在任期でイエズス会は進展を遂げ、彼は第二の創設者と呼ばれることになった。会員の数も増加しロヨラ死去の時点で1000名だった人数はフランシスコの下で4000名に増加、それぞれ各地の修道院へ配属された。 更に海外宣教、特にアメリカ大陸伝道を推進、ローマ学院で養成された多くの宣教師は世界各地へと赴いた。南北アメリカへ派遣された宣教師達は明暗が分かれ、1566年から1572年にかけてスペインからフロリダ半島へ派遣された遠征隊に同行したイエズス会士は、現地でインディアンに妨害されたり殺されたりして成果を挙げられなかったが、北アメリカの難航を見た宣教師達が南アメリカへ宣教先変更をフランシスコへ進言したため、イエズス会士は1568年にペルーへ、1572年にメキシコへ派遣された。ペルーはフランシスコが宣教に期待を寄せていたホセ・デ・アコスタら優秀な人材が現地の先住民の生活改善と布教に努力し言葉を翻訳、教会・学校などインフラ整備で成果を挙げ、メキシコのほかエクアドル(1586年)、コロンビア(1589年)、チリ(1593年)などフランシスコの死後新しい管区が開かれていった。フランシスコは海外宣教師へ宛てた文書で改宗者を注意深く教育することについて指摘、ピウス5世への提案に海外宣教活動を枢機卿からなる中央委員会に置くことを勧め、1622年の布教聖省(福音宣教省)設置に結実した。 1570年にオスマン帝国のヨーロッパ遠征隊派遣に対抗してカトリック諸国結集を計画したピウス5世は、教皇特使を各国へ派遣することを決め、フランシスコを随行者に選んだ。フランシスコは病気で健康面に不安を抱えていたが、承諾して1571年6月30日に使節団に加わって出発した。 スペインでは、かつて統治していたカタルーニャで昔と違い住民に歓迎され、異端審問所は禁書に指定していたフランシスコの本を公刊、バレンシアでも家族に迎えられた。スペインも対オスマン帝国同盟に賛成し、使節任務は進展した。しかしポルトガルは王位継承問題に直面、フランシスコはセバスティアン1世とフランス王女マルグリットの結婚を勧め、1572年に病気のため使節団に遅れてフランスを訪問したが、既にマルグリットはナバラ王エンリケ3世(後のフランス王アンリ4世)と結婚することが決まっていたため、フランスを対オスマン帝国同盟にも入れられず交渉は不首尾に終わった。使節と別れた後に冬の寒さで病状が悪化、心配したサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトや又従兄に当たるフェラーラ公アルフォンソ2世の配慮で駕籠や船に乗せられイタリアへ運ばれ、ローマに帰還した時は瀕死の状態で、2日後の9月30日に兄弟トマスやイエズス会の仲間達に見守られる中、自分の子供や孫達に祝福を授け、ローマで亡くなった。61歳だった。 埋葬された遺体は1617年にジェズ教会へ移されたが、フランシスコの孫でスペイン王フェリペ3世の寵臣のレルマ公フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハス(英語版)の要請で、1624年に片腕だけジェズ教会に残してマドリードでレルマ公が建立した教会へ移葬、教皇ウルバヌス8世に列福された。47年後の1671年に教皇クレメンス10世により列聖された。 フランシスコの死から半年後の1573年4月12日に総会が開かれたが、総長が3代続けてスペイン人だったことでスペイン人会士に対する他の外国人会士の反感が高まり、ピウス5世の死後選出された教皇グレゴリウス13世やポルトガル王家も総長選挙に介入、紆余曲折の末4月23日に非スペイン人でベルギー人会士のエヴェラール・メルキュリアン(英語版)が第4代総長に選出された。以後メルキュリアンとイタリア人の第5代総長クラウディオ・アクアヴィーヴァ(英語版)はイエズス会の更なる組織整備・発展に尽くし、会士にロヨラの精神の再確認を呼びかけ、教育法規の制定で学習カリキュラムを明確な形で纏め、イエズス会をスペイン一辺倒から国際色豊かな組織に作り替えた。スペイン国粋主義と異端審問の圧力にも屈せず、イエズス会士を13000人にもおよぶ組織に成長させていった。
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