総選挙落選後
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2010年1月24日、自民党に離党届を提出。離党理由として「非民主、脱自民の民意を踏まえ、新しい政党政治が必要」と述べる。夏の参議院議員選挙に他党からの可能性も含め、立候補を目指すとした。離党届は3月24日の党紀委員会で了承され、無所属となった。 2011年4月24日に行われた大館市長選挙に無所属で立候補したが、落選した。 2012年9月25日より新党「日本維新の会」東京事務所長。12月に行われる第46回衆議院議員総選挙に秋田1区から出馬することを表明。立候補するが落選。 2014年12月14日公示の第47回衆議院議員総選挙に、維新の党の比例北陸信越ブロック名簿登載者として立候補。代表的肩書きは「党職員」となっている。落選。 2017年に小泉純一郎、細川護熙両元首相らが「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」(原自連)を立ち上げるとこれに参加し、政治活動を行っている。
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総選挙落選後
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2006年8月22日、早期の国政復帰を目指して、日本医師会の政治団体である日本医師連盟(日医連)の第21回参議院議員通常選挙比例区推薦候補公募に立候補するも、この日開かれた日医連執行委員会での挙手による採決の結果、圧倒的大差で3選を目指す自民党の武見敬三参院議員に敗れた。しかし4月の日医会長選で、武見が当選した唐澤祥人会長に肩入れしたことを「政治介入」とし、強く反発していた近畿6県などの執行委員は退席した。また、2007年1月30日には、茨城県医師会の政治団体である茨城県医師連盟(委員長原中勝征)は常任委員会を開き、第21回参議院通常選挙で武見敬三と自見庄三郎の2人を推薦することを全会一致で決め、都道府県医師連盟で初めて、日本医師連盟の決定に背く決定を下した。 2006年10月13日、「参院選では国民新党がキャスティングボートを握る可能性がある」として、第21回参議院議員通常選挙に国民新党の比例候補として立候補することが正式に発表された。2007年2月4日に実施された北九州市長選挙では、当選した北橋健治を支援した。当初は過去のいきさつもあり自由民主党が推薦した対立候補を個人的に応援していたが、新たな所属先である国民新党が北橋を推薦したことから、最終的に党の方針に従った。
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