総選挙敗北による退陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
激しい三木おろしを何とかしのぎ切り、自らの政権で衆議院選挙を行うことができた三木であったが、三木と挙党協との激しい対立によって自民党は事実上分裂選挙となった。挙党協は次期首相候補の福田を押し立て、派閥解消実行委員会という事実上の選挙対策本部を立ち上げ、三木執行部の党本部とは別個に候補者の地盤調整、資金援助を行った。選挙戦開始直後、三木は東京で第一声を挙げたが。福田は大阪で、ロッキード事件解明にかこつけて国民が期待する景気回復という仕事をなおざりにするのは許されないという趣旨の、三木の政治姿勢を痛烈に批判した第一声を挙げた。党本部は12日に日比谷野外音楽堂で演説会を企画したが、福田は現れなかった。また地方からは党総裁である三木の遊説を拒否するところも出た。このようにはっきりとした分裂選挙になってしまった自民党では、もちろん選挙の盛り上がりも欠けた。 第34回衆議院議員総選挙では、三木政権で改正された公職選挙法、政治資金規正法が適用された初の全国的な選挙となった。法改正の結果、選挙運動はこれまでのやり方から変更を余儀なくされたが、とりわけ政治資金規正法の改正と財界の三木離れの影響で、自民党の選挙資金調達は困難となり、結局前回総選挙の半分以下の金額しか集められなかった。 選挙戦終盤になって各種世論調査で自民党の苦戦が伝えられるようになると、自民党内にようやく深刻な危機感が生まれた。もし自民党が地すべり的な大敗を喫すれば、政権の座そのものから滑り落ちることになり、選挙後の政権が三木とか福田とかなど言っていられなくなるからである。投票を2日後に控えた12月3日、ようやく三木と福田は同じ自民党の選挙カーに乗って握手を交わすことになった。 12月5日の選挙結果は自民党の大敗となり、公認候補では過半数割れとなる249議席、保守系無所属の追加公認を加えてようやく過半数に達した。12月の総選挙時には、ロッキード問題を徹底追及する三木と、ロッキード隠しの挙党協という構図は色褪せたものになってしまっており、国民は三木と挙党協との争いは自民党内の醜い権力闘争と見るようになっていた。 総選挙直後、三木は選挙結果について責任を痛感していて、責任を回避するつもりはないとの内容のコメントを出し、退陣を示唆していた。その後真鶴の別荘に篭り、「私の所感」という文書を作成した。なお、私の所感執筆に三木は一週間かけたと伝えられている。12月17日、三木は私の所感を党三役に提出し、正式に退陣を表明した。所感の中で三木は退陣を表明した上で、長老政治の体質打破、ロッキード事件の徹底解明と金権体質、派閥抗争の一掃、全党員参加による総裁公選制度の採用という3点の自民党改革に向けての提言をした。 12月23日、自民党衆参両院議員総会で三木の総裁辞任が認められ、ただちに党大会に代わる位置づけの両院議員総会で満場一致で福田が新総裁に選任された。翌24日、三木内閣は総辞職し、首班指名選挙で福田が首相に指名され、福田内閣が成立した。
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