総合格闘技転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:02 UTC 版)
1992年WKA世界ミドル級チャンピオンでミスターWKAと呼ばれていたデル・クックとシュートボクシングで対戦し、判定負け。この試合は自分のいる場所ではなくもっと遠くから自分を見ているような感じであったという。当時総合格闘技をやりたいと思っていた平は自分の考えを総合格闘技の記者に打ち明け、翌日石井和義に試合を組んでもらえることになった。最初はシーザーも反対していたが、最後は「いいか、やるからには絶対に勝つんだ」と平の練習のために日本大学のレスリング部まで挨拶に行ってくれた。そうして同年3月に正道会館主催の「格闘技オリンピック」に参戦。リングスルールでエリック・エデレンボスと対戦、アームロックで一本勝ち。 数度のリングス参戦を経てゼンショー総合格闘技部へ移籍するも、膝の負傷により長期欠場。その間にUFC、ブラジリアン柔術が出現するなど総合格闘技界の勢力分布図が大きく変動し、平はサンフランシスコでカーリー・グレイシーより柔術を学ぶ。当時、特に日本人には絶対に柔術を教えず、どうしても教えてほしいと粘るものには高い受講料をふんだくりスパーリングで潰すという噂のグレイシー一族であったが、石井和義が紹介したカーリーの存在はあてもなく渡米していた平には青天の霹靂であった。指導を受ける中で平はアルバイトで行っていた料理の流れは格闘技の流れと通じるものがあり、他の格闘技を覚えることは人間が主体であることに変わりはないことから材料が共通する料理を作ることと同じだと気付いた。料理の材料をきちんと仕込んで綺麗に取りやすいところに並べておく作業は、相手の攻撃を止めて自分が技を仕掛けやすい体勢を作る流れに共通するものがあり、相手の動きに合わせて技を仕掛けることは火加減や塩加減をその場その場で変えて行くのと同じである。料理と同じやり方で技を分解し、覚えることで不思議なほど早く平は柔術を覚えた。UFC2で凄惨なシーンの数々を目の当たりにしたため、技術を覚えないまま試合に出たら死んでしまうと思って必死になったこともスムーズな習得に関係している。 アメリカからグレイシー柔術を覚えて帰ってきた平は、総合格闘技のルール整備を知った。平はそれまで何でもありの総合格闘技を恐れていたが、この変化に「それは危険から逃げたってことじゃないのか」と違和感を覚えた。同時に見るスポーツとして定着する下地が出来上がったことで格闘技を見るだけで楽しむ人間がいる事実に嫌な気分になり、カーリー・グレイシーから教わった見世物ではない昔ながらのノールールの戦いを行おうと決意した1995年9月にヤン・ロムルダー戦で復帰。タックルからのマウントパンチ、それを嫌がって下を向いた相手にチョークスリーパー。1R49秒TKO勝利と、柔術修行の成果を見せつける。マウントパンチでは10秒も殴っていなかったが、ロムルダーは試合後に17針も顔面を縫った。文字通り命がけの戦いであったので、本人は全力で殴ったのだろうと振り返っている。 翌10月にブラジルで開催されたバーリトゥード・ブラジル・オープンに出場、海外選手へのファイトマネー未払いという主催者の不手際によって当初の大会は前座3試合が終わった時点で取りやめ。会場は暴動寸前になり、大会関係者は椅子を防災頭巾のように頭に乗せて逃げるようにして帰ってきたという。試合中止の影響なのか、宿泊先のホテルで何人か銃殺されたらしく、平は通訳から無用な外出は控えるように進言された。後日、試合中止になった分8人制のトーナメントが埋め合わせとして行われたが、開始時刻が過ぎてもファイトマネーが半額しか用意できなかった。このまま中止になる雰囲気が漂ったが、平が「俺、やってもいいよ」と言い出すと選手一同はやる気になり、ファイトマネー半額の条件でそのまま試合が強行された。この試合ではリングがただの四角い板の間で、マットは布が余って波打つ始末であったため、柔術よりも長くやっていた打撃と前に出る精神で悪い条件に対応。1回戦でキックボクサーのモーリス・トラビスに勝利。なお、この大会の優勝者にはヒクソン・グレイシーへの挑戦権が与えられていたが、プロモーターの金銭トラブルによって準決勝以降は開催されていない。行きのチケット代も自腹、試合中止によってプロモーターがホテルを途中でキャンセルしたため帰国日までのホテル代も選手持ちと、終始プロモーターの不手際が目立った大会期間中であった。 1996年、正道会館東京本部にて日本で初めてのブラジリアン柔術クラスを開講する。1998年10月28日の「K-1 JAPAN '98 〜風〜」で3年ぶりに現役復帰しニック・サンゾーとバーリトゥード・マッチを行う予定であったが、直前になって身内の不幸でサンゾーが帰国し、アレクサンダー大塚とエキシビション・マッチを行った。2003年、古巣であるシュートボクシングの試合を最後に現役を引退。現在はK-1、シュートボクシング、プロレス(IGF等)でレフェリーを務める。 みちのくプロレスや格闘探偵団バトラーツなどでプロレスラーとしても活動した。リングス後楽園実験リーグでミックスドルールで後川聡之(正道会館)と対戦したこともある。ちなみに総合格闘技におけるラストファイトはリングスでの港太郎戦。
※この「総合格闘技転向」の解説は、「平直行」の解説の一部です。
「総合格闘技転向」を含む「平直行」の記事については、「平直行」の概要を参照ください。
- 総合格闘技転向のページへのリンク