第一次上海事変
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1932年1月28日、第一次上海事変が勃発すると、石はユンカース K47(英語版)で1個小隊を率い南京防衛の任を受ける。2月20日、杭州筧橋への派遣を命じられるが、乗機が故障していたため、残りの6機を部下の邢剷非に率いさせ、第4隊、第6隊、そして広東空軍とともに先に杭州に向かわせた。 2月25日、ようやく機体が直った石は、銃手の呉華樑とともに雨の中杭州筧橋飛行場(中国語版)に到着し、黄秉衡航空署長に蔣介石の書簡を届ける。書簡の内容は、公大飛行場から空母へと引き上げた日本軍航空隊による飛行場爆撃を危惧するものであった。石と黄は協議の結果、筧橋の全戦力を20キロ離れた喬司機場、更に蛙埠へと移動させる事にした。また、整備主任の曾堯には夜明け前に起きてエンジンを始動し温める事、邢剷非には日の出とともに上空警戒の任をそれぞれ命じた。 翌日2月26日午前5時、加賀から小田原俊郎大尉率いる爆撃隊3個小隊の13艦攻9機、援護隊として鳳翔から所茂八郎大尉率いる2個小隊3式艦戦6機が飛び立ち、暁闇の空を杭州へと向かった。しかし、邢剷非が上空警戒の任を怠ったため、石の出撃は杭州到達直後の7時の事であった。 石は第六隊分隊長・趙普明操縦・竜栄萱銃手のV-92Cとともに飛び立ち、編隊の爆撃を妨害、続いて13艦攻第3小隊の2番機および小隊機それぞれ1機を撃墜。しかし弾数の残りが少なくなったうえ、銃手・沈延世の後部機銃が故障。そこに渥美信一大尉率いる第5小隊3機の銃撃を受け、7.7ミリ機銃が石の左腕を貫通した。石の乗機は次々と被弾し、エンジンから火が噴出した。沈延世がパラシュートを装着していなかったため、石は片手で消火装置を作動し鎮火させたのち地上に不時着し、渥美小隊が飛び去るまで翼下に隠れやりすごした。その際、渥美小隊は石機の不時着地点からわずか400m先に喬司機場と中国空軍機22機(日本側は12機と記録)を発見、稼働中の2機に銃撃を浴びせ、1機撃破確実を報告した。趙普明機は所茂八郎大尉機と巴戦を展開し被弾、胸に重傷を負う。また、広東空軍派遣隊分隊長の呉汝鎏(中国語版)もウェイコ・エアクラフト(英語版)製単座戦闘機で駆け付けたが反撃にあい撃墜され、筧橋北東1キロの畑中に不時着した。 日本軍機が飛び去った後、石は田相国より止血処置を受け、趙とともに杭州広済医院(現浙江大学医学院附属第二医院(中国語版))に搬送される。しかし3月4日、敗血症で石の容態は悪化、弟の石邦正から輸血され上海から医師を呼ぶなどの措置が取られたが、結局左腕は切断せざるを得なかった。左腕はホルマリン漬けの標本となり同医院に保管された。一方の趙普明は肺の負傷が大きく、やむなく片肺を切除したが3月18日に死亡した。 回復後、傷跡を見た蔣介石はいたく感涙し、教官として空軍に留まるよう述べた。また、民衆の間でも石邦藩は一躍英雄となり、「邦藩牌」というタバコが上海で売られるほどだったという。 なお、この戦闘当時第二隊隊長であったという文献が多くみられるが、国民政府令によれば当時副隊長であった。この記録が正しければ、腕を失った後も同職に留まり、同年8月20日、第二隊隊長に就任したことになる。 1933年7月、飛行士を引退し、筧橋中央航空学校の三期入伍生隊隊長(2月14日~10月)を経て、1934年、南京大校場機場(中国語版)站長。1935年6月以降は南京総站に指定され、首都防空の補給拠点を担う。1936年10月30日、明故宮機場にてカーチス・ホークⅢ献納式の整理指揮をとる。
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第一次上海事変 (1932年)
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「外白渡橋」の記事における「第一次上海事変 (1932年)」の解説
1932年1月28日、第一次上海事変で国民党軍により蘇州河の北側の当時日本人居留民が多く居住していた通称「日本租界」がある閘北区に砲撃が加えられたことにより、60万人もの中国人避難民が外白渡橋を渡って蘇州河南側の共同租界に入ろうとした。日本軍は何週間にもわたって橋の通行を制限した。1932年2月20日、朝になって差し迫った戦火に悶える群衆が、租界にいま一度入ろうと外白渡橋に向かって殺到した。多くの白系ロシア人の女性の避難民が上海で売春婦になった。高級売春婦の末路は“ガーデン・ブリッジをうろつくこと”、要するに外白渡橋で物乞いになることだった。
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