本家・末家関係が論じられる大名家とは? わかりやすく解説

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本家・末家関係が論じられる大名家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/27 08:32 UTC 版)

本家末家論争」の記事における「本家・末家関係が論じられる大名家」の解説

越前松平家福井藩 - 津山藩北ノ庄藩松平忠直配流後越後高田藩であった弟の忠昌が幕命により福井藩相続した忠直嫡男の光長は忠昌の旧領であった越後高田新たに領地与えられた。越後騒動が起こると光長は改易・配流されたが、後に赦免された。光長の養子である宣富にはのち新たに美作津山領地与えられ津山藩主家として存続した。 紀州徳川家水戸松平氏和歌山藩 - 水戸藩水戸藩主松平頼房寛永13年1636年)に徳川賜姓されるまで、同じ養珠院を母とする徳川頼宣分家扱いであった紀州徳川氏鷹司松平家和歌山藩 - 吉井藩摂関家出身鷹司信平徳川頼宣次女松姫正室として、紀州家縁者として新たに松平家興した水戸徳川家高松松平家水戸藩 - 高松藩高松藩松平頼重徳川頼房長男であるが、同じ久昌院を母とする光圀水戸徳川家相続した高松松平家御連枝としても別格で、溜詰四品大名家となった会津松平家保科氏会津藩 - 飯野藩将軍徳川秀忠隠し子である正之は保科正光引き取られ養育された。正光が正之を後継定めたために、正光養嗣子であった弟の正貞は廃嫡されたが、後に別に大名取り立てられた。後に正之は保科氏伝来宝物を正貞に引き渡しており、正之子孫保科ではなく松平姓となっている。 伊達氏仙台藩 - 宇和島藩伊達政宗庶長子・秀宗は豊臣秀吉から偏諱を受け伊達氏惣領とされたが、徳川氏覇権後に嫡出次男忠宗が惣領とされた。父・政宗大坂冬の陣参陣の功によって与えられ伊予宇和島別家立て独立、準国主大名となった仙台藩本家宇和島藩別家とされた。 伊達氏田村氏仙台藩 - 一関藩伊達忠宗三男鈴木宗良は、祖母愛姫遺言により、その実家である田村氏再興仙台藩から分与受けて大名取り立てられた。 池田氏岡山藩 - 鳥取藩池田輝政嫡男隆と輝政継室督姫徳川家康次女)の嫡男忠継及びその弟で養子忠雄がともに四品国主大名であった池田氏建部氏岡山藩鳥取藩 - 林田藩豊臣政権下で尼崎郡代700であった建部光重の子・政長は池田輝政養女を母とする池田家縁家とされる大坂の陣では池田利隆・忠継兄弟幕下戦功挙げ摂津尼崎1万石を与えられ大名取り立てられた。 池田氏下間池田氏岡山藩鳥取藩 - 新宮藩寄合旗本本願寺坊官下間頼龍の子頼広は母を池田恒興養女とし、後に池田重利改名した大坂の陣では池田利隆・忠継兄弟幕下戦功挙げ摂津国川辺郡・闕郡(尼崎領)1万石を与えられ大名取り立てられた。 毛利氏萩藩 - 長府藩毛利輝元従弟の秀元を養嗣子としていたが、実子の秀就が生まれると、秀元に別家立てさせた。秀就・秀元ともに幕府からは四品国主扱いであった毛利氏吉川氏萩藩 - 岩国藩毛利輝元従弟吉川広家豊臣政権下では四品侍従以後吉川氏幕府より諸侯扱い受けていたが、萩藩では独立許さず家老扱いであった堀氏奥田堀氏福嶋藩 - 三条藩従弟堀秀政家老として支えた奥田直政は、堀姓を与えられ分与受けて大名取り立てられた。 井伊氏彦根藩 - 与板藩井伊直政死後嫡男の直継が相続したが、直継が病弱であることを問題視し幕府はその弟の直孝に彦根藩相続命じ、直継には上野安中所領与えた小笠原氏小倉藩 - 安志藩小笠原秀政とその嫡男忠脩が大坂の陣戦死すると、忠脩の弟忠真が相続した。忠脩の死後生まれた長次は新たに播磨龍野所領与えられた。 佐竹氏岩城氏久保田藩 - 亀田藩亀田藩初代岩城吉隆久保田藩初代佐竹義宣の甥であり、後に義宣の養子佐竹義隆となって久保田藩相続した領地近接していることもあって、亀田藩久保田藩介入をたびたび受けた織田氏柏原藩 - 天童藩織田信雄死後、その隠居領小幡藩織田信昌(信雄の孫)の後見人であった叔父の高長(信雄五男)が継承しようとした。これに対して信昌側は異議唱えたが、幕府の裁定により高長の相続認められた。 森氏関氏赤穂藩 - 三日月藩津山藩初代森忠政外孫であった関長政は、兄の長継が津山藩森家相続するにおよんで、長継から分与受けて大名取り立てられた。以降両家活発な養子関係を結んでいる。 南部氏盛岡藩 - 八戸藩南部重直死後、その所領幕府の裁定により二人の弟(重信、直房)に分割して与えられた。盛岡藩重信)が本家八戸藩(直房)が別家とされた。 堀田氏佐倉藩 - 宮川藩佐倉藩堀田正盛将軍徳川家光信任され老中となったが、長男正信の代に幕政批判をしたとして改易子孫近江宮1万石で存続した。一方三男の正俊は春日局養子となって大老任じられ子孫佐倉藩11万石存続した。 島津氏佐土原藩 - 内分大隅垂水佐土原島津家島津以久三男忠興系統)は幕府からは諸侯として扱われていたが、薩摩藩内では垂水島津家(以久の長男彰久の系統)の分家扱いであった藤堂氏藤堂宮内家安濃津藩 - 内分伊賀名張羽柴秀長養子であった高吉(丹羽長秀三男)は藤堂高虎養子になったが、高虎実子高次誕生する廃嫡。後に内分伊予今治から伊賀名張転封した。幕府によって名張家を召し出す動きがあったため、享保年間まで名張藤堂氏本家との対立続いた

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