最終夜 再会
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「99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜」の記事における「最終夜 再会」の解説
1945年8月7日、収容所内でも広島への原爆投下が知れ渡る。しづが広島に預けられたことを知らない平松家の住むバラックの一室では、しづ・さちの安否を気遣うとも・次郎・長吉は二人は出雲に住んでいるのだからと安心させることに努めたが、この先も新型爆弾が落とされ続けるのではないかと危惧する次郎と長吉の間で激論していた。不安を抱きつつも長吉はあくまで日本の勝利を信じていた。 8月17日に日本の無条件降伏が伝えられたが、畑で作業していた長吉は日本の降伏を知らせに来たともや次郎に対しても日本の降伏を信じなかった。その日のうちに収容所内にも玉音放送の録音が屋外で流れたが、広場に集まった日系人には初めて直に聞く天皇の声であった。遅れて来た長吉もそれを聞いた。今後の身の振り方を話し合っていたとも・しのぶ・次郎に続いて、長吉は一転してそれまで自身を支えていた誇りが砕かれて張り詰めていたものが切れたように打ちひしがれた心情を吐露してよろよろと部屋を出て行った。軍用郵便で小宮弘から沖縄戦終了後で野戦病院でさちと出会ったことが書かれた手紙が届いたため、次郎が長吉に伝えようと畑に行くと長吉はすでに自殺していた。医務室では日本敗戦を苦にしての自害だろうが時期が悪いとして病死とされる。 とき一家らが住んでいた空き家に一人住んでいたさちは死んだと言われてもとき一家を探してあちこちの病院や洞窟を回っていたが徒労に終わった。弘は食料を持ってきて、アメリカに帰国するように説得したが、見捨てられた姉妹同士としてしづのいる広島へ行きたいと頑に親兄弟がいるアメリカ帰国を拒んだ。沖縄で身寄りのなくなったさちの姉思いの決意に感化された弘は広島行きの便宜を図ると約束して、辛抱するようにと慰めた。数日後、休暇を取った弘はさちを広島へ連れて行った。跡形もない広島市街では祠の石台だけがその直ぐ脇にあったしづの預かり先の家屋の名残であった。弘はしづが通っていた女学校に出向き、しづの入院先を調べてきた。しづは自らの放射能被爆を知る由もなく広島中央病院に入院していた。病院内の惨状にさちは「アメリカは原爆を落としたら、こんな酷い犠牲者が出る事を分かってて、あんな爆弾を落としたの?それもみんな、戦争には関係ない民間人ばかりなのよ。鬼よ、アメリカは!」と弘とともに怒りを滲ませた。そんな中、しづとの再会を果たすが、血の滲む包帯巻きされた右腕と被爆火傷の右頬を上に向けて地面にござ敷きで寝かされていたが、弘の尽力で病床棟へ移ることができた。しづは原爆投下当日は学徒動員の待ち合わせの工場にいて、学校にいたら生きていなかったという。弘から支給品の食料と持ち合わせの現金を渡され、後日の再会を約束して別れたしづとさちは病院に居続けると言いつつも、密かに抜け出し、爆撃を受けなかった土地へと向かった。10月、ともが帰還船に乗る前日の夜にマンザナー収容所に弘が現れ、自分の知りうる限りのしづ・さちの安否情報と日本の混乱状況とを併せて二人のことは諦めるようにと告げられ、しのぶや次郎にも説得されてともは悲嘆に暮れながらも日本への帰国を諦めた。 しづ・さちは爆撃を免れた京都に到着したが、彷徨い歩いて間もなくにさちに後に付いていたその場でしづが過労で倒れる。倒れたしづを背負いながらも手近に病院の看板を見つけたが、その外来待合室で膨大な数の患者を見て愕然とするも何とかしづに治療を受けさせた。その後、診察医の菊池正行の自宅に匿われ、夫人の千代の世話を受ける。夫人は二人の息子をフィリピン・満州で相次いで戦死されていたので、それぞれの嫁も実家に帰ってしまい、広い家の中で寂しい思いをしていた。 ある日、さちが千代の部屋を見ると農家が手に入れた着物の洋装への仕立て直しものを扱って米や野菜との交換をしていたのでミシン掛けを手伝うようになった。しづも手伝いたがっていたが、いつまで経っても体調が治らないどころか、大量に髪が抜けるという症状が現れていた。 11月、収容所閉鎖を通告され、シアトル市街の寺院で仮住まい生活をする。ともが農場がどうなっているか見てみたいと望んだので次郎は気は進まなかったが三人で見に行ったところ、元の住まいも農地も見る影もないほどに荒れ放題となっていた。買い叩かれても止むなく手放した農場の予想外の現状に次郎は憤慨してジェームズに問い詰めに行ったが、けんもほろろの対応で取り付く島もなく追い返された。ジェームズは病により体を蝕まれ、農作業もできない体になっていた。シアトル市街に戻った三人は心を新たに各々ができることで仕事に就いて懸命に働いたが、夢の実現には程遠かった。 1946年7月15日、首都ワシントンで442部隊による凱旋行進が行われると知らされていたので、ケンも連れて四人で観に行った。そこで彼らが見たものは、夏木の左手に抱えられた一郎の遺影であった。ともは思いもかけず一郎の遺影に駆け寄り夏木に取り縋った。行進が済んでから、一郎の死の瞬間を夏木の口から知らされ、とも・次郎・しのぶは一郎の戦死に折合いをつけられるようになった。夏木はその後大学、ロースクールへと進み弁護士として平松家にかかわるようになった。それに続くかのように今度はジェームズが面会を要望して山岸に仲介を依頼してきた。人が変わったようにとも、しのぶやケンに丁寧に挨拶してまわるジェームズは、次郎に前回の非礼をも詫びてきた。442部隊の凱旋行進中にともの姿をニュースで見たことを伝え、一郎たちが命を懸けてテキサス大隊を救出したことを感謝し、農作業ができなくて荒れ放題になった土地家屋を平松家に手放すと申し出た。更に現在低賃金労働をさせられているかつての収容所で農作業を手伝っていた人々の世話も山岸から依頼され、とも・次郎は快く引き受けた。朝になって山岸が連れてきた懐かしい農作業仲間を遠目にして再会を喜ぶ想いで迎え入れた。 1947年5月、さちが東京行きを決めてきて、しづも一緒に連れて行くと話しかけたが、床の中でしづは弱々しい声で祝福するとそっと眠るように息を引取った。同じ運命に遭ったしづがいるからこそ頑張れたさちは「あたしを一人ぼっちにしないで!」と悲痛な声を上げて泣いた。原爆がどんなに恐ろしい兵器だったのか、その時さちはまだ知らなかった。しかし、辛かったはずのしづの死顔は笑っているように見えて、やっと楽になった表情だった。さちはもう一度しづをアメリカに連れてきてあげたかったと悔やんだ。 1952年にマッキャラン・ウォルター移民帰化法が可決されて、移民一世に帰化が認められてから7年後の1959年7月、ともはハワイ州出身で442部隊のOBだったダン井上議員の当選を報じる記事を手にしてしのぶに満面の笑みを見せ、在りし日の一郎を重ね合わせその喜びを次郎にも伝えようと納屋に向かった矢先、そのまま地面に崩れ落ちた(享年61)。心筋梗塞であり、病院に着く前には既に亡くなっていた。
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