最終夜 再会とは? わかりやすく解説

最終夜 再会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:30 UTC 版)

99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜」の記事における「最終夜 再会」の解説

1945年8月7日収容所内でも広島への原爆投下知れ渡る。しづが広島預けられたことを知らない平松家の住むバラック一室では、しづ・さちの安否気遣うとも・次郎・長吉は二人出雲住んでいるのだからと安心させることに努めたが、この先新型爆弾落とされ続けるのではないか危惧する次郎長吉の間で激論していた。不安を抱きつつも長吉はあくまで日本勝利を信じていた。 8月17日日本無条件降伏伝えられたが、畑で作業していた長吉日本の降伏知らせに来たともや次郎に対して日本の降伏信じなかった。その日のうちに収容所内にも玉音放送録音屋外流れたが、広場集まった日系人には初め直に聞く天皇の声であった遅れて来た長吉もそれを聞いた今後身の振り方話し合っていたとも・しのぶ・次郎続いて長吉一転してそれまで自身支えていた誇り砕かれ張り詰めていたもの切れたように打ちひしがれた心情吐露してよろよろ部屋出て行った軍用郵便小宮弘から沖縄戦終了後野戦病院でさちと出会ったことが書かれ手紙届いたため、次郎長吉伝えようと畑に行くと長吉はすでに自殺していた。医務室では日本敗戦を苦にしての自害だろうが時期が悪いとして病死とされる。 とき一家らが住んでいた空き家一人住んでいたさちは死んだと言われてもとき一家探してあちこち病院洞窟回っていたが徒労終わった。弘は食料持ってきて、アメリカ帰国するように説得したが、見捨てられ姉妹同士としてしづのいる広島行きたいと頑に親兄弟がいるアメリカ帰国拒んだ沖縄身寄りなくなったさちの姉思い決意感化された弘は広島行きの便宜を図る約束して辛抱するようにと慰めた数日後休暇取った弘はさちを広島連れて行った跡形もない広島市街では祠の石台だけがその直ぐ脇にあったしづの預かり先の家屋名残であった。弘はしづが通っていた女学校出向き、しづの入院先を調べてきた。しづは自らの放射能被爆を知る由もなく広島中央病院入院していた。病院内惨状にさちは「アメリカ原爆落としたら、こんな酷い犠牲者が出る事を分かってて、あんな爆弾落としたの?それもみんな、戦争には関係ない民間人ばかりなのよ。鬼よ、アメリカは!」と弘とともに怒りを滲ませた。そんな中、しづとの再会を果たすが、血の滲む包帯巻きされた右腕被爆火傷の右頬を上に向けて地面にござ敷き寝かされていたが、弘の尽力病床棟へ移ることができた。しづは原爆投下当日学徒動員待ち合わせ工場にいて、学校にいたら生きていなかったという。弘から支給品食料持ち合わせ現金渡され後日再会約束して別れたしづとさちは病院居続けると言いつつも、密かに抜け出し爆撃を受けなかった土地へと向かった10月、ともが帰還船に乗る前日夜にマンザナー収容所に弘が現れ自分知りうる限りのしづ・さちの安否情報日本混乱状況とを併せて二人のことは諦めるようにと告げられ、しのぶや次郎にも説得されてともは悲嘆暮れながらも日本への帰国諦めた。 しづ・さちは爆撃免れた京都到着したが、彷徨い歩いて間もなくにさちに後に付いていたその場でしづが過労倒れる。倒れたしづを背負いながらも手近に病院看板見つけたが、その外来待合室膨大な数の患者見て愕然とするも何とかしづに治療を受けさせた。その後診察医の菊池正行自宅に匿われ、夫人千代世話を受ける。夫人二人の息子フィリピン満州相次いで戦死されていたので、それぞれの嫁も実家帰ってしまい、広い家の中寂し思いをしていた。 ある日、さちが千代部屋を見ると農家手に入れた着物洋装への仕立て直しものを扱って米や野菜との交換をしていたのでミシン掛け手伝ようになった。しづも手伝いたがっていたが、いつまで経って体調治らないどころか大量に髪が抜けるという症状現れていた。 11月収容所閉鎖通告されシアトル市街寺院仮住まい生活をする。ともが農場がどうなっているか見てみたいと望んだので次郎は気は進まなかったが三人で見に行ったところ、元の住まい農地も見る影もないほどに荒れ放題となっていた。買い叩かれても止むなく手放した農場予想外現状次郎憤慨してジェームズ問い詰め行ったが、けんもほろろの対応で取り付く島もなく追い返された。ジェームズは病により体を蝕まれ農作業できないになっていた。シアトル市街戻った三人は心を新たに各々できること仕事に就いて懸命に働いたが、夢の実現には程遠かった1946年7月15日首都ワシントン442部隊による凱旋行進が行われると知らされていたので、ケン連れて四人で観に行った。そこで彼らが見たものは、夏木左手抱えられ一郎遺影であった。ともは思いもかけず一郎遺影駆け寄り夏木取り縋った行進済んでから、一郎の死の瞬間夏木の口から知らされ、とも・次郎・しのぶは一郎戦死折合いつけられるようになった夏木その後大学ロースクールへと進み弁護士として平松家にかかわるようになった。それに続くかのように今度ジェームズ面会要望して山岸仲介依頼してきた。人が変わったようにとも、しのぶやケン丁寧に挨拶してまわるジェームズは、次郎前回非礼をも詫びてきた。442部隊凱旋行進中にともの姿をニュースで見たことを伝え一郎たちが命を懸けてテキサス大隊救出したことを感謝し農作業ができなくて荒れ放題になった土地家屋平松家手放す申し出た。更に現在低賃金労働させられているかつての収容所農作業手伝っていた人々世話山岸から依頼され、とも・次郎快く引き受けた。朝になって山岸連れてきた懐かし農作業仲間遠目にして再会を喜ぶ想い迎え入れた1947年5月、さちが東京行き決めてきて、しづも一緒に連れて行く話しかけたが、床の中でしづは弱々しい声で祝福するとそっと眠るように息を引取った。同じ運命遭ったしづがいるからこそ頑張れたさちは「あたしを一人ぼっちにしないで!」と悲痛な声を上げて泣いた原爆どんなに恐ろしい兵器だったのか、その時さちはまだ知らなかった。しかし、辛かったはずのしづの死顔笑っているように見えて、やっと楽になった表情だった。さちはもう一度しづをアメリカに連れてきてあげたかった悔やんだ1952年にマッキャラン・ウォルター移民帰化法可決されて、移民一世帰化認められてから7年後1959年7月、ともはハワイ州出身442部隊OBだったダン井上議員当選報じる記事を手にしてしのぶに満面の笑み見せ在りし日一郎重ね合わせその喜び次郎にも伝えよう納屋向かった矢先そのまま地面崩れ落ちた享年61)。心筋梗塞であり、病院に着く前には既に亡くなっていた。

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