日本の競馬における主な落馬事故
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「落馬」の記事における「日本の競馬における主な落馬事故」の解説
平地競走 1956年日本ダービー - 重馬場の上に27頭立てということもあり、外枠の有力馬キタノオー・ヘキラクが早めに有利なポジションを確保しようと内に馬体を寄せた結果、1コーナーで馬群が内側に詰まり混乱が発生し、その中で行き場を失った内枠のエンメイとトサタケヒロが落馬。故障を発症したエンメイは予後不良となり、エンメイの馬主で作家の吉川英治はそれにショックを受けて馬主業から撤退した。エンメイ鞍上の阿部正太郎も騎手としては引退に追い込まれる瀕死の重傷を負った。この事故がきっかけとなり、日本中央競馬会は事故防止委員会を設立した。また、事故調査委員会も開かれ、6月の梅雨による馬場の悪化の影響を指摘。それ以降のダービーについて「5月の最終日曜日に実施する」という原則を発表した。加えて、それまで障害競走のみで使用されていたヘルメットを平地競走でも導入することとなった。 1967年阪神大賞典 - 1965年のダービー馬キーストン(山本正司騎乗)が最後の直線で故障、山本が落馬。予後不良となる程の重傷を負いながらも、失神している山本を気づかうような仕種を見せたキーストンの姿は、後々までの語り種になっている。 1973年高松宮杯 - 先頭を走っていたハマノパレードが最後の直線で転倒。致命的な負傷を負ったが、レース後即座に安楽死とならず食肉業者に売られたことが後日明らかとなる。この事件以降、予後不良となった馬は手続き終了後、即座に薬殺されるようになった。 1985年の札幌日経賞で、スタート直後に落馬したギャロップダイナが鮮やかな好位差しで“1位入線”を果たし、この年の年末スポーツ特番の格好のネタとなった。なお、グレード制施行後の重賞レースでスタート直後に落馬した馬が“1位入線”したケースは1993年の京阪杯(ワイドバトル)、2008年のエリザベス女王杯(ポルトフィーノ)、2010年のユニコーンステークス(コスモセンサー)、2012年の全日本2歳優駿(アメイジア)の例がある。なお、ポルトフィーノに騎乗していた武豊は2002年菊花賞でも落馬しており、GI級競走で複数回スタート直後に落馬した史上初めての事例となった。 1990年、前年の阪神3歳ステークス優勝馬のコガネタイフウは、1年で2度平地競走で落馬している。3月4日のペガサスステークス、10月20日のカシオペアステークス(オープン特別)である。いずれも騎手は田原成貴でペガサスステークスでは腰椎・骨盤を骨折する重傷を負ったが、馬はいずれのレースでも故障はなかった。なお同馬はのちに障害競走にも出走した(3戦して落馬なし)。なお、1年に2度平地競走で落馬した馬には、ギガンティック(翌年も平地競走で1回落馬)、アルドラゴン、タナトスがいる。 1995年第36回宝塚記念 - ライスシャワーが第3コーナーの坂の下り(この年は京都競馬場で開催)で故障を発生し転倒。鞍上の的場均が落馬し馬は予後不良となる。のちに京都競馬場内をはじめ数か所に同馬の記念碑が建てられた。 2001年京都大賞典 - ステイゴールドが最後の直線で斜行し、ステイゴールドとテイエムオペラオーの間に挟まれたナリタトップロード鞍上の渡辺薫彦が落馬。審議の結果ステイゴールドは1位入線も失格となり、2位入線のテイエムオペラオーが繰り上がり優勝した。 2007年1月27日の東京競馬場において、第2競走から3レース連続して計9頭の落馬事故が起こった。また第10競走でも1頭が故障して落馬。同じ日の小倉競馬場で2頭、翌1月28日の京都競馬場でも2頭が落馬しており、2日間で14頭落馬したことになる。このほか28日の小倉第4競走の新馬戦では1着馬が入線後に落馬している。 2010年1月11日の中山競馬場において、第4競走・3歳新馬でノボプロジェクトが第4コーナーで急に外側へ斜行したことの影響で出走16頭中9頭が落馬した。1つのレースでの落馬頭数としては中央競馬史上最多。ノボプロジェクトは1位入線も失格となり、騎乗していた三浦皇成は進路妨害が認められ、4日間の騎乗停止となった。落馬した9頭に異状はなかったが、内田博幸が左尺骨近位骨幹部骨折の重傷を負うなど騎手6人が負傷や検査によりその後のレースの騎手変更を余儀なくされた(詳細については9頭落馬事故を参照)。なお、地方競馬では1979年2月に園田競馬場で出走11頭中8頭が落馬する事故が発生している。 中央競馬のGI級競走における1番人気馬の落馬の例としては、1969年の日本ダービーでのタカツバキ(スタート直後に落馬)、2002年の菊花賞でのノーリーズン(スタート直後に躓き落馬)がある。 障害競走 障害競走では複数頭の落馬がたびたび発生している。1985年の中山大障害(春)では、名物の大竹柵障害で出走馬10頭中6頭が一挙に落馬、完走したのは半数以下の4頭だった。1999年の京都ハイジャンプでは13頭中7頭が、2003年の阪神スプリングジャンプでは14頭中6頭が、2010年12月4日の阪神競馬第4競走障害未勝利戦においても14頭中7頭が落馬している。2001年の中山グランドジャンプでは、向正面の2号坂路(バンケット)の下りで先に転倒した馬に後続の3頭が巻き込まれて落馬したが、このうちの1頭のランドが再騎乗して完走した。 1964年3月8日の中京競馬場でのサラ系障害戦では、出走頭数4頭のうち3頭が落馬し、1頭(アルプスオー)のみ完走を果たした。この為、単勝式馬券のみ的中となり、連勝式馬券は買い戻しとなった。 1965年1月4日の第1回中山競馬第2日目の第3競走サラ障害オープン戦(勝ち馬フジノオー)において、サチオンワードに騎乗していた坪井正美は、最終障害で落馬転倒して後続の馬に頭を蹴られ、前頭部頭蓋骨陥没骨折および側頭部開放性骨折の重傷を負った。特に側頭部の骨折箇所からは脳が見える程の大怪我であったが、すぐに病院へ搬送されて緊急手術を受けた結果、奇跡的に回復。年内には復帰して14勝を挙げ、1980年に引退するまで活躍した。 1970年5月17日に行われた、第5回阪神障害ステークスでは、出走馬4頭中3頭が落馬し、1番人気のツキヒデキング(佐山優騎手騎乗)が優勝した。また落馬した3頭のうち、最低人気のダイニトップレディは、高見常正騎手が再騎乗の上完走した為、連勝式馬券の買い戻しは発生しなかった。
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