日本のプライベートチームの参戦とは? わかりやすく解説

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日本のプライベートチームの参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 22:24 UTC 版)

ル・マン24時間レース」の記事における「日本のプライベートチームの参戦」の解説

シグマオートモーティブ ル・マン初め日本のチームマシンドライバー登場したのは1973年シグマ・オートモーティブである。当初トヨタ製エンジン搭載する予定だったが、トヨタからエンジン供給受けられず、やむなくマツダ製の12Aロータリーエンジン購入して搭載したこのためル・マン出場したMC73リアウイングに「TOYOTA」のスポンサー描かれいながらマツダエンジン搭載した異色マシンであったシグマMC73は元々富士グランチャンピオンレース用のマシン耐久性問題があり、クラッチトラブルにより79周目にリタイアした1974年マツダオート東京正式にジョイントし、24時間走り切ったが、周回数不足で完走認められなかった。マツダオート東京エンジンチューニングメンテナンス担当し、この時のル・マンへの思いがのちのマツダル・マン挑戦きっかけとなったと言われている。なおこのときのドライバー一人が、長年参戦続けたことから後に「ミスター・ル・マン」の異名を取ることになる寺田陽次郎である。 1975年トヨタからのエンジン供給実現し2T-Gターボエンジン搭載したシグマ・MC75エントリーしたが、結果エンジントラブルリタイアとなった。 これを最後にル・マン挑戦をやめたが、シグマ・オートモーティブ母体設立されサードその後引き継ぎ1990年トヨタワークスチームとしてル・マン再出場を果たした1994年には旧グループCカー貸与され出場エディ・アーバイン/マウロ・マルティニ/ジェフ・クロスノフ組が2位表彰台獲得している。1995年1996年には独自開発GTマシン・サード・MC8RとスープラLM-GT参戦した童夢1979 - 1986年1978年ジュネーブモーターショーで、スーパーカー童夢-零」を発表し、その玩具ライセンス収入きっかけ1979年のル・マン24時間レース初挑戦した。RLはF1用に販売されていたフォード・コスワース・DFVエンジン搭載したが、1台がエンジントラブルで、もう1台もガス欠リタイアした1980年RLをクローズドボディ化したRL80を1台エントリーし最下位25位で完走した1981年は、前年と同じRL80で出場したが、エンジントラブルリタイアした1982年イギリスマーチジョイントして、フォード・コスワース・DFLエンジン搭載した童夢RC82を製作したが、サスペンショントラブルでリタイアした1983年マーチとの提携1年解消され前年マシン改良したRC82改で出場したが、マシントラブルでリタイアした1984年、RC-83で出場するものの、予選コースアウトしてマシン大破し決勝出場辞退した現地チーム貸与したRC82は予選通過する決勝リタイヤ1985年童夢・トヨタ・トムスによる提携実現し童夢製の車体当時市販されていたグループB車両トヨタ・セリカGT-TSの2,090ccエンジンレース用に修正した4T-GT改を搭載する85C-Lで出場決勝はトランスミッショントラブルでリタイアしたトムスエントリーしたマシントムス・85C-Lと呼ばれるがほぼ同一マシンである。1986年前年同様の体制で86C-Lで出場したが、冷却系統トラブルリタイアしたこの年限り童夢第1期ル・マン参戦終わった2001年FIA スポーツカー選手権 (FIA SCC) 参戦用の車としてオープンプロトタイプカーのS101を開発すると、同車購入したプライベーターによりル・マンに再び参戦するようになった中でもヤン・ラマース率いRacing for Holland2001年から2007年までル・マン参戦し2001年・2003年には予選4番手を獲得するなど、打倒アウディ・R8の有力候補として期待されていたが、決勝ではトラブル悩まされることが多く最高位2003年・2004年総合6位と、期待されたほどの成績残せなかった。 2005年以降ル・マンレギュレーション変更によりマシンをS101-Hb、S101.5とマイナーチェンジしてきたが、2008年には久々新車としてクローズドプロトタイプのS102開発しワークス参戦総合33位)。2012年には改良型S102.5アンリ・ペスカロロ提携して4年ぶりに復帰した2015年にはLMP2クラスS103投入し、ストラッカ童夢42号車としてルマン出走したが、ミッショントラブルによりリタイアしたマツダオート東京1979年1981 - 1983年1974年シグマ・オートモーティブジョイント参戦したマツダオート東京は、1979年に自らのチーム参戦果たしたマシンはIMSA-GTO仕様サバンナRX7252iであった。しかしマツダ本社サポート得られず、マシンテスト不足とチーム体制不備により結果予選落ちとなった。 翌1980年チーム体制構築のための参戦見合せ1981年に再挑戦をする。この際トム・ウォーキンショー・レーシング (TWR) と提携した。また1979年参戦した際、食事面の配慮欠いたため食当たりでドライバー体調不良招いた反省から、フランスで修行中だった料理人脇雅世チーム料理長迎えた。脇は1991年まで料理長務めることとなったこの年RX7253を2台をエントリーし2台とも予選通過したもの決勝リタイアとなった1982年RX7254を2台エントリーし、1台はエンジントラブルリタイア、もう一台寺田陽次郎/従野孝司/アラン・モファット組はガス欠症状悩まされながらも14完走1983年前年創設されグループCジュニアクラス参戦しマツダ717を2台製作した。2台が完走果たしグループCジュニアクラスの1位と2位となったが、もともとこのクラス参戦少なく評価はされていないこの年TWR都合提携解消したその後マツダオート東京モータースポーツ部門独立してマツダ本社傘下マツダスピードとなり、以後の活動ワークス・チームよるものとなったトムス1980年1985 - 1986年1980年トヨタ・セリカRA40系ベースのIMSA-GTXマシン初参戦し予選落ち1982年童夢共同日本初めグループCカー開発しWEC-JAPAN参戦1983年以降WEC-JAPANおよび全日本耐久選手権(後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)にフル参戦するようになった1985年童夢とともにトヨタエンジンを搭載した85C-Lで5年ぶりにル・マン参戦し12完走。これが事実上トヨタル・マン初参戦である。翌1986年、86C-Lで参戦する完走できなかった。1987年以降はトヨタ・チーム・トムス (TTT) として、トヨタワークスとしての活動になった

※この「日本のプライベートチームの参戦」の解説は、「ル・マン24時間レース」の解説の一部です。
「日本のプライベートチームの参戦」を含む「ル・マン24時間レース」の記事については、「ル・マン24時間レース」の概要を参照ください。

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