日本のビール醸造とは? わかりやすく解説

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日本のビール醸造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 03:20 UTC 版)

日本のビール」の記事における「日本のビール醸造」の解説

日本におけるビール醸造確認できる最古文献は、ヘンドリック・ドゥーフオランダ帰国後著した日本回想録』で、ノエル・ショメルの『日用百科辞典(仏: Dictionnaire œconomique)』を参考にして「白ビールの味のする液体」を造ったことが書かれている。ただし、発酵が十分ではなく、またホップ入手できなかったために使用されていない高野長英著作救荒二物考』(1836年)には、救荒作物としての早生ソバ調理例としてビール(「ビイル」)の醸造法記してあり、翻訳物以外では初めての記述となる。高野実際に醸造行っていたのかどうかは、はっきりしていない。 確認出来ている範囲で、日本人初めビール醸造したのは川本幸民である。1853年頃、川本自宅ビール醸造実験行ったと言われており、曹源寺境内で、桂小五郎大村益次郎橋本左内といった人物招いて醸造したビール試飲会を行ったとも言われている。 1869年には、日本最初ビール醸造所となる「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」がアメリカ人のG・ローゼンフェルトドイツ人技師のE・ヴィーガントによって横浜外国人居留地設立されている。1870年にはノルウェー系アメリカ人技師ウィリアム・コープランドが「スプリング・バレー・ブルワリー」を横浜外国人居留地設立している。スプリング・バレー・ブルワリーは後に麒麟麦酒となる。また、コープランドは、工場隣接自宅改装し外国人居留者と外国船の船員向けに「スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン」を開設している。日本初ビアガーデンと言える1872年には大阪市渋谷庄三郎が「渋谷ビール(しぶたにビール)」を醸造販売する日本人としては初めての本格的なビール醸造販売業者である。なお、渋谷ビール渋谷亡くなった1881年製造終了している。以後山梨県甲府市商家十一屋」を営む野口正章の「三ツ鱗ビール」、保坂之輔の「北方ビール」(横浜市)、清水谷商会東京売り出したに「桜田ビール」(1881年麹町桜田麦酒醸造所桜田麦酒大瓶詰1ダース2円75銭で販売した。『東京日日新聞1881年1月)といった具合販売相次ぐこの頃参入した業者個人業者多く醸造手軽なイギリス風のビール生産する傾向強かった京都でも1883年から1887年に「扇ビール」、「井筒ビール」、「九重ビール」、「兜ビール」といった民間企業ビール販売されている。 1876年には開拓使北海道札幌市札幌麦酒醸造所設立し冷製札幌ビール」の製造販売を行うようになった日本人による初のブルワリーである。札幌麦酒醸造所は、後にサッポロビールとなる。初期には輸入ビールの量が生産高より多かったが、1887年頃をピークとして輸入量は減少し大手資本ビール生産参入するようになった1885年には居留民によってジャパンブルワリー麒麟麦酒前身)、1887年には丸三麦酒1888年には札幌麦酒醸造所大倉組買収し札幌麦酒株式会社設立1889年には大阪麦酒株式会社アサヒビール前身)、1893年には日本麦酒ヱビスビール生産)が成立している。当時輸入したビール瓶再利用するのが一般的であったが、1893年大阪麦酒会社吹田工場ビール瓶自社生産開始している。これら戦前期代表することになる新規参入四社はいずれドイツ系ビール生産しており、日本のビールドイツ系ビール一色となった一方で個人事業主大規模な生産体制構築することができず、多く撤退追い込まれている。1906年にはビール産業外国対抗できるものにしようとする清浦奎吾農商務大臣の強い働きかけによって日本麦酒札幌麦酒大阪麦酒合同し大日本麦酒成立した第一次世界大戦で、アメリカ合衆国ヨーロッパ各国からのビール輸入絶たれたことで、日本をはじめ東南アジアイギリス領インド帝国醸造されビール大量に輸入するようになった1913年比較して第一次世界大戦終戦となる1918年には、日本のビール輸出量は222倍にも上り日本醸造されるビール25%輸出充てられていた。1920年にはアメリカで禁酒法施行されることになり、これに伴ってアメリカ国内不要となったビール醸造機械買い取って日本に運ぶことで、新たなビール会社の設立相次いだ横浜市鶴見区日英醸造宮城県仙台市東洋醸造(のちに旭化成吸収され同名酒造メーカーとは無関係)が代表例として挙げられる1939年日本のビール製造量が第二次世界大戦前ピークに達するが、同年9月18日物価停止令による販売価格固定化続いて1943年製品規格統一化されて、戦後1949年までブランド消滅する時代続いた1949年には大日本麦酒朝日麦酒日本麦酒分割され麒麟麦酒との三社体制になった1957年醸造用アルコール生産高日本2位成長していた宝酒造が「タカラビール」の販売開始するが、3社寡占状態もあって酒問屋タカラビール取り扱い断られたこともあり、販路拡大失敗1967年にはビール醸造から撤退した1959年には沖縄県当時アメリカ合衆国統治下)でオリオンビール生産開始する1963年にはサントリービール製造開始している。

※この「日本のビール醸造」の解説は、「日本のビール」の解説の一部です。
「日本のビール醸造」を含む「日本のビール」の記事については、「日本のビール」の概要を参照ください。

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