日本のビール醸造
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日本におけるビール醸造が確認できる最古の文献は、ヘンドリック・ドゥーフがオランダ帰国後に著した『日本回想録』で、ノエル・ショメルの『日用百科辞典(仏: Dictionnaire œconomique)』を参考にして「白ビールの味のする液体」を造ったことが書かれている。ただし、発酵が十分ではなく、またホップも入手できなかったために使用されていない。 高野長英の著作『救荒二物考』(1836年)には、救荒作物としての早生のソバの調理例としてビール(「ビイル」)の醸造法が記してあり、翻訳物以外では初めての記述となる。高野が実際に醸造を行っていたのかどうかは、はっきりしていない。 確認が出来ている範囲で、日本人で初めてビールを醸造したのは川本幸民である。1853年頃、川本は自宅でビールの醸造実験を行ったと言われており、曹源寺境内で、桂小五郎、大村益次郎、橋本左内といった人物を招いて醸造したビールの試飲会を行ったとも言われている。 1869年には、日本で最初のビール醸造所となる「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」がアメリカ人のG・ローゼンフェルトとドイツ人技師のE・ヴィーガントによって横浜の外国人居留地に設立されている。1870年にはノルウェー系アメリカ人技師ウィリアム・コープランドが「スプリング・バレー・ブルワリー」を横浜の外国人居留地に設立している。スプリング・バレー・ブルワリーは後に麒麟麦酒となる。また、コープランドは、工場隣接の自宅を改装し、外国人居留者と外国船の船員向けに「スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン」を開設している。日本初のビアガーデンと言える。 1872年には大阪市で渋谷庄三郎が「渋谷ビール(しぶたにビール)」を醸造、販売する。日本人としては初めての本格的なビール醸造・販売業者である。なお、渋谷ビールは渋谷が亡くなった1881年に製造を終了している。以後、山梨県甲府市の商家「十一屋」を営む野口正章の「三ツ鱗ビール」、保坂森之輔の「北方ビール」(横浜市)、清水谷商会が東京で売り出したに「桜田ビール」(1881年、麹町の桜田麦酒醸造所が桜田麦酒を大瓶詰1ダース2円75銭で販売した。『東京日日新聞』1881年1月)といった具合に販売が相次ぐ。この頃に参入した業者は個人業者が多く、醸造が手軽なイギリス風のビールを生産する傾向が強かった。京都でも1883年から1887年に「扇ビール」、「井筒ビール」、「九重ビール」、「兜ビール」といった民間企業のビールが販売されている。 1876年には開拓使が北海道札幌市に札幌麦酒醸造所を設立し「冷製札幌ビール」の製造、販売を行うようになった。日本人による初のブルワリーである。札幌麦酒醸造所は、後にサッポロビールとなる。初期には輸入ビールの量が生産高より多かったが、1887年頃をピークとして輸入量は減少し、大手資本がビール生産に参入するようになった。1885年には居留民によってジャパンブルワリー(麒麟麦酒の前身)、1887年には丸三麦酒、1888年には札幌麦酒醸造所を大倉組が買収し、札幌麦酒株式会社を設立、1889年には大阪麦酒株式会社(アサヒビールの前身)、1893年には日本麦酒(ヱビスビールを生産)が成立している。当時は輸入したビール瓶を再利用するのが一般的であったが、1893年に大阪麦酒会社の吹田工場がビール瓶の自社生産を開始している。これら戦前期を代表することになる新規参入の四社はいずれもドイツ系のビールを生産しており、日本のビールはドイツ系ビール一色となった。一方で個人事業主は大規模な生産体制を構築することができず、多くが撤退に追い込まれている。1906年にはビール産業を外国に対抗できるものにしようとする清浦奎吾農商務大臣の強い働きかけによって日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒は合同し、大日本麦酒が成立した。 第一次世界大戦で、アメリカ合衆国はヨーロッパ各国からのビールの輸入を絶たれたことで、日本をはじめ東南アジアやイギリス領インド帝国で醸造されたビールを大量に輸入するようになった。1913年と比較して、第一次世界大戦が終戦となる1918年には、日本のビールの輸出量は222倍にも上り、日本で醸造されるビールの25%が輸出に充てられていた。1920年にはアメリカで禁酒法が施行されることになり、これに伴ってアメリカ国内で不要となったビール醸造機械を買い取って日本に運ぶことで、新たなビール会社の設立が相次いだ。横浜市鶴見区の日英醸造、宮城県仙台市の東洋醸造(のちに旭化成に吸収された同名の酒造メーカーとは無関係)が代表例として挙げられる。 1939年、日本のビール製造量が第二次世界大戦前のピークに達するが、同年9月18日に物価停止令による販売価格の固定化、続いて1943年に製品の規格が統一化されて、戦後の1949年までブランドが消滅する時代が続いた。1949年には大日本麦酒が朝日麦酒と日本麦酒に分割され、麒麟麦酒との三社体制になった。 1957年に醸造用アルコール生産高が日本2位に成長していた宝酒造が「タカラビール」の販売を開始するが、3社寡占状態もあって酒問屋にタカラビールの取り扱いを断られたこともあり、販路拡大に失敗。1967年にはビール醸造から撤退した。1959年には沖縄県(当時はアメリカ合衆国統治下)でオリオンビールが生産を開始する。1963年にはサントリーがビール製造を開始している。
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