救助作業と被害
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「北陸線列車雪崩直撃事故」の記事における「救助作業と被害」の解説
辛うじて難を逃れた人々のうち、3人が海岸伝いに糸魚川まで向かって事故の一報を知らせた。消防団の伝令が、当時糸魚川町長を務め、消防団長も兼務していた中村又七郎に事故の発生を報告した。その晩中村は、白沢組の社長と2人で糸魚川の料亭で飲んでいた。夜9時ごろになって社長あての電話が入った。そのため社長は中座したが、席に戻ると帰ると言い出した。この時の電話が、実は事故発生を告げるものであったが、社長は電話の内容について中村に告げることはなかった。中村は帰宅して就寝した後、消防団の伝令によって事故の報告を受け、警察署に向かった。 警察署長の要請を受けて、消防団が集合した。すでに救援列車は現地に向けて出発していて、その後電話で青海駅から「死傷者の搬送と手当のために医師の出動並びに担架の準備を」と連絡が入った。巡査部長が医師の招集のために出動した後、中村は担架代わりにする目的で駅の戸板を外すように団員たちに命令した。しばらくして巡査部長が戻ってきて、糸魚川駅に近い寺町地区で開業していた医師の安藤俊夫以外は誰も来てくれないと報告した。巡査部長の報告を聞いた中村は、以前から医師たちの不親切ぶりに憤慨していたため、直接掛け合うことを決めた。団員を引き連れて町の医師たちの説得を試み、それが功を奏して、先ほどは招集を断った医師も出動を承諾した。 救援列車は、日付が変わった2月4日の午前2時頃に糸魚川駅へ戻ってきた。貨車の中には、死亡者や負傷者が大勢いた。消防団員たちは担架で負傷者を駅の横にあった鉄道集会所に搬送して、安藤医師たちが手当てにあたった。死亡者は、清崎地区の善導寺と寺町地区の正覚寺に運ばれた。 救援列車は折り返して現地に向かうことになり、中村は消防団の人手を2組に分けた。1組は救援列車に乗車して現地で救助作業を担当させ、もう1組はその後送られてくる死傷者の搬送収容のために糸魚川で待機させた。救援列車は青海駅で立ち往生してしまったため、徒歩での行動となった。青海駅を過ぎたところにある青海川の鉄橋は海風と冷たい雨のせいで提灯の火が消えて危険だったため、這って渡り終え、現地へ到着した。勝山トンネル内には、十数人の遺体が線路の両脇にそのままの状態で並べられていた。トンネルの西口は雪崩に埋められていて、雪を掘って狭い通路がつけられていた。トンネルの外では、雪崩で粉々になった客車に挟まれたままの遺体が雪に埋まっていた。遺体の損傷は酷く、雪崩の威力を物語っていた。その中には右手におにぎりを握り、口から飯粒がこぼれたままで絶命している人もいて、一瞬の惨事であることを示していた。 暗闇の中でアセチレンランプとカンテラ、そして提灯を頼りに行う救助活動中、消防団員に混じって1人、頭から血を流しながらも鼻歌を歌っている男性がいた。やがてその男性は倒れてしまい、鼻歌もやんだ。慌ててその男性の脈をとると、すでに絶命していたという。また、消防団員の1人が海岸へ向かうために斜面を下っていると、いきなり足を何かにつかまれて転倒した。さては亡霊の仕業か、と思って提灯をかざすと、雪の中から1本の手が出ていた。すぐに他の団員を呼んで救助作業にかかった結果、この手の主は一命を取り留めている。作業は救助よりも遺体の発掘が主となっていた。消防団員は雪の中から遺体を二十数体掘り出して、明け方に一度撤収した。糸魚川駅の鉄道集会所で手当てを受けていた負傷者のうち、重傷者は高田市(1971年に直江津市と合併して上越市を新設して消滅)の知命堂病院に移送された。 この事故は、1915年5月22日に発生したイギリス・スコットランドのキンティンスヒル鉄道事故(死者277名)に次いで当時世界で2番目の惨事と報道された。長野赤十字病院が事故の救援のために外科医と看護婦たちを派遣したのを始め、鉄道省側と応援団体からも多くの人々が駆けつけた。その人数は2月4日から2月8日までの5日間で、鉄道省側1592名、応援団体3602名を数えた。ただし、鉄道省側と応援団体の間はうまくいかなかった。鉄道路線の復旧を優先しようとする鉄道省側の態度は、応援団体や地元の住民たちからは冷酷に見えた。やがてこの事故の影響もあって、鉄道の除雪作業に応募しようとする住民はほとんどいなくなるありさまだった。 遺体の収容作業は進んだが、最後の2遺体がなかなか見つからなかった。糸魚川町の蓮台寺(れんだいじ)地区の責任者を務めていた男性(当時26歳)が、事故から4日目の2月7日になって海岸の波打ち際近くで発見された。蓮台寺地区では、当時の戸数が40戸で、青年団構成員16名のうち15名がこの事故に遭遇し、うち13名が死亡する惨状だった。男性の父親は、息子の遺体に取りすがって「組頭としてよく死んでくれた」と号泣した。父親の心境について、周囲の人々は「日露戦争の南山の戦いと旅順攻囲戦で2児を失った乃木大将と同じだ」と評し、深い同情を寄せた。2月8日には、最後の遺体が発見された。 この事故では、死者90名(即死88名、収容後死亡2名)、重軽傷者40名の遭難者が出た。死者の内訳は鉄道職員1名、除雪作業員88名、乗客1名で、犠牲者の数において当時の鉄道省としては最悪の惨事であった。犠牲となった人々は、糸魚川町と近辺の西頸城郡西部の町村に住んでいた。年代別では、働き盛りの20代から30代の青年たちが過半数を占めていた。 死亡者の居住地町村名糸魚川町能生町大和川村磯部村死者数24名 17名 24名 24名 死亡者の年齢層年代別10代20代30代40代50代60代死者数13名 34名 19名 21名 1名 1名 事故に遭った第65列車には、1名だけ一般の乗客が乗っていた。非業の死を遂げたこの乗客が、どこからどのような経緯で乗車したのか、行き先はどこだったのかなどは全く分からず、身元はついに判明しなかった。検視後、この乗客の遺体は正覚寺に安置されて遺族からの連絡を待っていたが結局不明のままで、火葬されて百霊廟(共同墓地)に埋葬された。この乗客については、後に九州から身内ではないかとの照会があったというが、人違いだった。 なお、遺体の収容作業が進む一方で北陸線の復旧作業も進められた。2月5日14時には復旧開通し、42時間の現場支障時間が記録されている。
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