救助作業と被害とは? わかりやすく解説

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救助作業と被害

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:33 UTC 版)

北陸線列車雪崩直撃事故」の記事における「救助作業と被害」の解説

辛うじて難を逃れた人々のうち、3人が海岸伝い糸魚川まで向かって事故の一報知らせた消防団伝令が、当時糸魚川町長を務め消防団長兼務していた中村又七郎事故発生報告した。その晩中村は、白沢組の社長2人糸魚川料亭飲んでいた。夜9時ごろになって社長あての電話入った。そのため社長中座したが、席に戻ると帰ると言い出した。この時の電話が、実は事故発生告げるものであったが、社長電話内容について中村告げことはなかった。中村帰宅して就寝した後、消防団伝令によって事故報告を受け、警察署向かった警察署長要請受けて消防団集合した。すでに救援列車現地向けて出発していて、その後電話青海駅から「死傷者搬送手当のために医師出動並びに担架準備を」と連絡入った巡査部長医師招集のために出動した後、中村担架代わりにする目的で駅の戸板を外すように団員たちに命令したしばらくして巡査部長戻ってきて、糸魚川駅に近い寺町地区開業していた医師安藤俊夫以外は誰も来てくれない報告した巡査部長報告聞いた中村は、以前から医師たちの不親切ぶりに憤慨していたため、直接掛け合うことを決めた団員引き連れて町の医師たちの説得試み、それが功を奏して先ほど招集断った医師出動承諾した救援列車は、日付変わった2月4日午前2時頃に糸魚川駅戻ってきた。貨車中には死亡者負傷者大勢いた。消防団員たちは担架負傷者を駅の横にあった鉄道集会所搬送して、安藤医師たちが手当てあたった死亡者は、清崎地区善導寺寺町地区正覚寺運ばれた。 救援列車折り返して現地に向かうことになり、中村消防団人手2組分けた1組救援列車乗車して現地救助作業担当させ、もう1組その後送られてくる死傷者搬送収容のために糸魚川待機させた。救援列車青海駅立ち往生してしまったため、徒歩での行動となった青海駅過ぎたところにある青海川鉄橋海風冷たい雨のせいで提灯の火が消えて危険だったため、這って渡り終え現地到着した勝山トンネル内には、十数人の遺体線路両脇そのままの状態で並べられていた。トンネル西口雪崩埋められていて、掘って狭い通路つけられていた。トンネルの外では、雪崩粉々になった客車挟まれたままの遺体埋まっていた。遺体損傷酷く雪崩威力物語っていた。その中には右手おにぎり握り、口から飯粒こぼれたままで絶命している人もいて、一瞬惨事であることを示していた。 暗闇の中でアセチレンランプカンテラ、そして提灯頼りに行う救助活動中、消防団員混じって1人頭から血を流しながらも鼻歌歌っている男性がいた。やがてその男性は倒れてしまい、鼻歌もやんだ。慌ててその男性の脈をとると、すでに絶命していたという。また、消防団員1人海岸へ向かうために斜面下っていると、いきなり足を何かにつかまれ転倒した。さては亡霊仕業か、と思って提灯をかざすと、の中から1本の手が出ていた。すぐに他の団員呼んで救助作業かかった結果この手の主は一命取り留めている。作業救助よりも遺体の発掘が主となっていた。消防団員の中から遺体二十数体掘り出して明け方一度撤収した糸魚川駅鉄道集会所手当て受けていた負傷者のうち、重傷者は高田市1971年直江津市合併して上越市新設して消滅)の知命病院移送された。 この事故は、1915年5月22日発生したイギリス・スコットランドキンティンスヒル鉄道事故死者277名)に次いで当時世界で2番目の惨事報道された。長野赤十字病院事故救援のために外科医看護婦たち派遣したのを始め鉄道省側と応援団体からも多く人々駆けつけた。その人数は2月4日から2月8日までの5日間で、鉄道省側1592名、応援団体3602名を数えた。ただし、鉄道省側と応援団体の間はうまくいかなかった。鉄道路線復旧優先しようとする鉄道省側の態度は、応援団体や地元住民たちから冷酷に見えた。やがてこの事故の影響もあって、鉄道の除雪作業応募しようとする住民はほとんどいなくなるありさまだった。 遺体の収容作業進んだが、最後の2遺体がなかなか見つからなかった。糸魚川町蓮台寺れんだいじ)地区責任者務めていた男性当時26歳)が、事故から4日目2月7日になって海岸波打ち際近く発見された。蓮台寺地区では、当時戸数40戸で、青年団構成員16名のうち15名がこの事故遭遇し、うち13名が死亡する惨状だった。男性父親は、息子遺体取りすがって組頭としてよく死んでくれた」と号泣した父親心境について、周囲人々は「日露戦争南山の戦い旅順攻囲戦2児失った乃木大将同じだ」と評し、深い同情寄せた2月8日には、最後遺体発見された。 この事故では、死者90名(即死88名、収容死亡2名)、重軽傷40名の遭難者出た死者内訳鉄道職員1名、除雪作業88名、乗客1名で、犠牲者の数において当時鉄道省としては最悪惨事であった犠牲となった人々は、糸魚川町近辺西頸城郡西部の町住んでいた。年代別では、働き盛り20代から30代青年たちが過半数占めていた。 死亡者居住地町村糸魚川町能生町大和川村磯部村死者数24172424死亡者年齢層年代別10代20代30代40代50代60代死者数13341921名 1名 1名 事故遭った65列車には、1名だけ一般乗客乗っていた。非業の死遂げたこの乗客が、どこからどのような経緯乗車したのか、行き先はどこだったのかなどは全く分からず身元はついに判明しなかった。検視後、この乗客遺体正覚寺安置され遺族からの連絡待っていたが結局不明のままで、火葬されて百霊廟共同墓地)に埋葬された。この乗客については、後に九州から身内ではないかとの照会があったというが、人違いだった。 なお、遺体の収容作業が進む一方で北陸線復旧作業進められた。2月5日14時には復旧開通し42時間現場支障時間記録されている。

※この「救助作業と被害」の解説は、「北陸線列車雪崩直撃事故」の解説の一部です。
「救助作業と被害」を含む「北陸線列車雪崩直撃事故」の記事については、「北陸線列車雪崩直撃事故」の概要を参照ください。

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