拉致事件発覚の端緒に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 01:02 UTC 版)
「富山県アベック拉致未遂事件」の記事における「拉致事件発覚の端緒に」の解説
「阿部雅美」も参照 1979年(昭和54年)当時、産経新聞社会部に所属していた阿部雅美は警視庁担当の事件記者であった。当時31歳だった阿部は、この年の秋、夜回り先で「日本海の方で変なことが起きている」という噂を偶然耳にした。そこで、阿部は千代田区日比谷にあった東京都立図書館に通い詰めて日本海沿岸各府県の地方新聞を北から順に読むことにした。「変なこと」といってもそうそうあるものではなく、阿部の調査は徒労になりかけたが、1978年8月16日付「北日本新聞」(本社、富山県富山市)朝刊社会面の「高岡の海岸 4人組が若い男女を襲う 手錠をかけ寝袋覆う」の記事が目に留まり、高岡警察署では悪質な逮捕監禁・暴行傷害事件として捜査していることを知る。生きた人間を頭から袋をかぶせるて手錠をかけるというのはあまりない手口であると思い、犯人たちがそのまま逃げたということはどういうことなのかが不思議で、また犯人たちが袋詰めにした男女をどうしたかったのか、疑問に思った阿部は現地での取材を開始した。 富山県警察本部を訪れたときは、事件から1年余を経過していた。ここで阿部が最も興味を寄せたのは多種で異様な遺留品の数々であった。報道には、「おもちゃの手錠、寝袋、猿ぐつわのようなもの」とあったが、実際には、モスグリーンの布袋、紐、タオル、猿ぐつわ、サンバイザー、バスタオル、手錠、その連結金具であった。手錠は玩具ではなく本物だった。 男性が救助された民家の家人は阿部に、当日の夜7時前、男性がうさぎ跳びをして「助けてくれ」と叫びながら家の風呂場の戸に体当たりしてきたので戸外に出たが、そのときの被害者男性の姿はまるで漫画の「おばけのQ太郎」のようだったと証言した。被害者男性は猿ぐつわと手錠をさせられており、家人に「彼女も襲われた」と告げたので、家人は息子と一緒に浜に出かけた。女性の方は後ろ手を紐で縛られ、タオルで口を封じられていたが、男たちの気配がなくなったことに気づいて自力で袋から脱出し、線路を越えた別の民家に駆け込んでいた。男性を助けた民家の住人が警察に通報すると、パトカー5台がかけつけた。 アベックを襲った犯人たちは、2人に袋をかぶせたあと袋を担いで30メートルも歩いて松林に運び、別々の場所に転がし、カモフラージュのため松の枯れ枝を袋にかけたという。彼らは赤銅色に日焼けしており、屈強な体つきをしていた。男性を助けた家族のなかには、当日の夕方5時半から6時頃にかけて犯人グループと思われる男性数人が浜を徘徊しているのを目撃した人物もおり、日本人らしからぬ風体だと感じたという。男のなかの1人はまた、事件前、近くの釣り人にたった一言「釣れますか」と日本語で声をかけている。犯人たちは手慣れた様子で動きが素早く、役割分担がきっちりできている様子で、犯行のあいだ終始無言だったが、そのうちの1人が女性に対し「静かにしなさい」とだけ言葉を発した。被害者もまた、犯人たちは日本人ではないように感じたという。彼らは何かをじっと待っているようだった。 男たちが現場に残した遺留品を鑑定した結果、ほとんどが外国製のものであることが判明した。猿ぐつわは天然ゴム製で質がわるく、呼吸のための孔が開けられ、耳を塞ぐこともできる異様な形状をしており、日本ゴム協会・ゴム工業技術員会によれば、工業力に劣る外国製のものだが、輸入したものでもないということだった。金属製の手錠もまた、日本では使用されていないもので、日本より工業水準の低い国で作られたものと推定された。柔道の黒帯に似た形状の紐も外国製であった。布袋はソ連兵が死体の収容と運搬・埋葬に使用するものと考えられる。タオルは大阪市の朝鮮人居住区で製造されたものと考えられ、これのみが富山県でも販売されていて現地でも調達が可能であった。タオル以外のすべてが、国内産でも輸入品でもない、合法的には日本に存在するはずのないものであった。 誘拐未遂事件の遺留品のほとんどが日本製でなかったこと、日本には袋に生きた人間を入れて運ぶという発想があまりないこと、犯人グループの服装や行動が当時の日本人からすると違和感を感じさせるものであったため、外国人の関与が可能性として浮かび上がった。高岡警察署の署長は、犯人たちは「日本人ではない東洋人グループ」であり、犯行はきわめて計画的であり、また、日没まで袋に入れた2人を運ぶのを待っていた様子が看取できると述べた。事件当夜は富山全県下に緊急配備して車両の検問も行ったが、犯行前と犯行後の足取りはいずれもまったくつかめていなかった。「車ではなく船ではないか」、そう考えた阿部は不審船情報にあたったが、取材の結果、ようやく1人だけ目撃者が現れた。また、1978年夏には外国を発信源とする怪電波が多く傍受されていたことが、警察庁の調査で明らかになっていた。後になって判明したことだが、残されていた遺留品はそれ以前に警察が逮捕した北朝鮮の工作員から押収したものと同じものが含まれていた。 阿部はさらに、男性、女性のいずれか、あるいは両方が特別な交友関係、特別な技能、特別な経歴、特別な思想信条の持ち主でないかを念のため確かめた。その結果、どこにでもいる、ごく普通の男女であることがわかった。ごく普通の男女を狙ったとすれば、連れ去るのは誰でもよかったということにつながる。連れ去るのが誰でもよかったとすれば他の海岸でも行っている可能性があるし、他でやっているとすれば、未遂(失敗)ではなく「成功」して実際に連れ去った事例もありうるのではないか。 この事件のあった直前には、福井県や鹿児島県でもアベック失踪事件が相次いで起こっていた。阿部は、福井と鹿児島にも取材の旅にでかけた。家出、心中、事故の可能性は限りなく薄かった。そして、阿部雅美は、当時新潟県警察が発表していなかった新潟県柏崎市の失踪事件にたどりついた。「どうしてウチがわかったんですか」、蓮池家を訪れた阿部に両親は驚いた。しかし、苦しい胸のうちを誰かに聞いてほしかったようで、取材には丁寧に応じてくれた。これが決め手となった。一連の出来事が外国の関与する拉致事件である可能性がみえてきたのである。 なお、こののち、1985年(昭和60年)に『週刊朝日』の記者が、北朝鮮工作員の辛光洙の顔写真を富山の事件の被害者に見せたところ、そのひとりから「見覚えがある」という答えが返ってきている。
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