性格と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/27 07:59 UTC 版)
ラデックはロシア革命期のパンフレット作者として、西ヨーロッパではよく知られた存在であった。ロシア革命以前には国際主義者として、レーニンの民族自決論に反対し、社会主義者はそういう民族の分裂をなくすために戦っていると論じた。さらにブレスト・リトフスク講和に際しては、ドイツとの単独講和に反対し、帝国主義ドイツへの革命戦争を主張している。 ラデック初期の経歴や政治志向はローザ・ルクセンブルクとよく似ているが、気質の違いがこの二人を大きく分けている。ローザは終生ラデックのことを嫌い、ラデックがポーランドを発つ直前に預かっていた労働組合の資金を私したという噂も信じていたらしい。ロシア革命直前のストックホルムでの活動を見ても、ラデックがどんな革命をどのように推進しようとしていたかはっきりしない。1919年にドイツの獄中では非公式に厚遇を受け、ドイツ各界の代表と面会している。革命家やヴァルター・ラーテナウなどの実業家たち、ドイツの軍人たちといかなることを話し合ったのか、これもよくわからないのだが、歴史家のE・H・カーはその後のドイツ-ソ連間の協力関係を作り出した人物としてラデックを評価している。 スターリンの言葉として「ラデックの理性を支配しているのは舌だ」というのがある。「自分はラデックの活気みなぎる知力と政治的な誠実を信頼している」と1918年に評価していたトロツキーとの提携は3ヶ月と保たなかった。 1929年、OGPUの工作員・ブリュムキンがトルコに亡命していたトロツキーをひそかに訪ねたところ、捕らえられて処刑されたことがある。トロツキーがブリュムキンにラデック宛の小包を託したという状況証拠から、ラデックが密告したものと思われる。1937年の粛清裁判での判決が比較的軽かったことから見て、彼が他人(ブハーリンなど)を売った可能性が高い。 第2回モスクワ裁判でラデックが死刑にならなかった理由について、元ソ連共産党員である高谷覚蔵は「アメリカをしてロシヤを承認せしめる為には、ラデックは大きな役割を演じたので、若しラデックを死刑に処したならば、アメリカの親密ユダヤ人の反感を買ひ、米露国交が破綻に瀕するといふ危険をスターリンが知つて居つたからである」との見解を示している。
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性格と評価
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「瀬川如皐 (3代目)」の記事における「性格と評価」の解説
几帳面な性格で、台本も趣向に富み、創作性には優れていた。ただし書き直しが多く、そのうえ台本の字が小さく、指示も細か過ぎるうえ、作品自体も冗長で、役者や観客からはすこぶる不評だった。代表作は『与話情浮名横櫛』(切られ与三)、『東山桜荘子』(佐倉義民伝)、『新台いろは書始』(のちに改作されて『松浦の太鼓』)など。とくに『切られ与三』では七五調の台詞を河竹黙阿弥に先駆けて使用して幕末の生世話物狂言の発展に貢献、『佐倉義民伝』では日本最初の農民劇を創作するなどの功績をあげている。また、『乗合舟』『競獅子』などの舞踊の作詞、合巻の著作などがある。 私生活では潔癖な人柄で、自宅は常に柱から土間まで磨きあげられ塵ひとつなかった。ある日家に遊びに来た後輩がうっかりして泥のついた下駄で入り込んだ時は、「おいおい。だめじゃないか。」と激しく怒ったという 嘉永7年(1854年)小團次が河原崎座に移籍。以降小團次は黙阿弥と提携してしまう。代わりに如皐と組んだ四代目中村芝翫が丸本物を得意とすることが、生世話物に本領とする如皐には合わないなどの理由から筆力が衰退する。それでも三代目澤村田之助のために『蠎阿由曙仇討』(うわばみお由)などいくつかの佳作をものにしたが、明治以降になると新時代に対応できず、さらに黙阿弥の人気に押され二流の芝居小屋での活躍を余儀なくされた。以上のように才能がありながらも狂言作者として大成せぬまま終わったが、鶴屋南北と黙阿弥の間の時代を埋める存在として評価されている。 墓所は向島弘福寺。四代目瀬川如皐は親戚に当たる。
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性格と評価
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「ヴィルヘルム・リープクネヒト」の記事における「性格と評価」の解説
長年の僚友であったベーベルは、リープクネヒトについて次のように評価した。 リープクネヒトは真の戦闘的気分の所有者であって、偉大な事業の完成に欠くべからざる確固不動の楽観的気質の人であった。……公の問題については、自分の意見への反対が出ると断言的にこれに対抗する癖があった。彼は実際的事務の能力を欠いていたので、誰かが内助者となって彼の計画の遂行を助ける必要があった。 同じように、マルクスはリープクネヒトの「機転の利かなさと乱暴な放言」を指摘していた。このような闘士としての資質が深い学識と相まって、彼をマルクス主義の強力な代弁者とした。ベーベルをラッサール派からマルクスの主張に近づけたのは、リープクネヒトの功績である。ベーベルが政治的妥協に向いていたのに対し、リープクネヒトは議会政治ではなく戦場における実力行使が社会主義の運命を決する、という考えを持っていた。このまったく対照的な2人がお互いに補いあい、ドイツ社会民主党を大衆政党とする基盤を造ったのであった。
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