性格と思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/14 14:10 UTC 版)
「ピョートル・ストルーヴェ」の記事における「性格と思想」の解説
1897年のマリヤ・ヴェトロヴァ焼身事件の直後に釈放されたナデジダ・クルプスカヤは、レーニンの依頼によりストルーヴェと連絡を取り助言を求めていたことがある。ストルーヴェは「組織の活動にも向かず、地下活動には全然不向き」であり、「彼が持っているのは書物の知識だけ」であると彼女は観察している。ロシアの詩人ではアファナーシー・フェートを好んでいた。 ストルーヴェは合法マルクス主義者としてナロードニキと対決し、そのテロリズムと農民に重きをおく考えを批判していた。そして資本主義による工業化はロシアに社会的進歩をもたらすとも主張していた。彼は農民や工場労働者が主導する革命は何一つもたらさないと考えていた。そこで1905年のペテルブルクでのデモンストレーションにさいしては、「ロシアにはいかなる革命的民衆も存在しない」と発言し、レフ・トロツキーに批判されている。同じ年にロシア皇帝ニコライ2世が発表した十月詔書を自由主義者として擁護すべきであるとも言い、さらなる革命は不要と考えていることを示す。 1909年に発表された論文集『道標』に、ストルーヴェは「インテリゲンツィアと革命」という論文を寄せているが、その中では国家原理と民族原理に反した社会改革や運動は失敗の運命にあり、反国家・反民族とはコサック、野盗と協力しうるという幻想に過ぎないと論じた。1840年代にロシアで形成されたインテリゲンツィアは反国家・反宗教の性格を持つ特異な存在であり、アレクサンドル・ラジーシチェフやピョートル・チャーダーエフ、アレクサンドル・ゲルツェンのような教養人とも区別しなければならない、と説く。これらの革命的インテリは「人民への奉仕」という理念を実行するが、人民自体にはいかなる義務も前提せず、人民自身に教育上の課題を課すこともなかった。ストルーヴェはこのような政治観・世界観は、ヨーロッパの社会主義に対しても危機を招くであろうと予想する。
※この「性格と思想」の解説は、「ピョートル・ストルーヴェ」の解説の一部です。
「性格と思想」を含む「ピョートル・ストルーヴェ」の記事については、「ピョートル・ストルーヴェ」の概要を参照ください。
性格と思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/19 18:15 UTC 版)
「クルト・ブルーメンフェルト」の記事における「性格と思想」の解説
1926年、ハイデルベルクでハンナ・アーレントはブルーメンフェルトに出会い、シオニズムの政治思想へと導かれている。シオニズムと離れた後もアーレントは彼に魅了され続け、ブルーメンフェルトは彼女が尊敬をもって口にする少数の中の一人であった。アーレントによると、ブルーメンフェルトの口癖とは「ゲーテの著作が私をシオニストにした」「シオニズムとはドイツからユダヤ人への贈り物だ」というものだった。彼にとってユダヤ人問題とはドイツの特殊状況であり、「ドイツ系ユダヤ人しか存在しなかった」という彼の発言は、この文脈で理解しなければならない。パレスチナに移住したブルーメンフェルトが他のシオニストの同志たちと違って自分のドイツ名を放棄しなかったのも、信念によるふるまいである。ブルーメンフェルトはシオニストの中での国際主義を代表する一人でもあり、第一次世界大戦後に「協商国」のシオニストが「同盟国」のシオニストを敗北者とみなしている風潮に同意しなかった。 ブルーメンフェルトが影響を与えたパレスチナ移住集団の「第2アリーヤー」は、その不屈と理想主義で知られていた。彼が説得しようとしたあるユダヤ系の人物がシオニズムが成功することへの疑いを表明したさい、ブルーメンフェルトは「私が成功に関心があると誰が言ったか」と反問したというエピソードがある。
※この「性格と思想」の解説は、「クルト・ブルーメンフェルト」の解説の一部です。
「性格と思想」を含む「クルト・ブルーメンフェルト」の記事については、「クルト・ブルーメンフェルト」の概要を参照ください。
- 性格と思想のページへのリンク