協定の性格と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 07:19 UTC 版)
「スコット・ムラヴィヨフ協定」の記事における「協定の性格と評価」の解説
この協定は、イギリスが満洲におけるロシアの鉄道建設を、ロシアが揚子江(長江)流域におけるイギリスの鉄道建設を相互に認め合う、いわば「満揚交換論」の結実であった。また、一面では、イギリス首相ソールズベリー侯爵がヴィルヘルム2世を皇帝に戴くドイツに対して強い警戒感をいだき、それよりもロシアを優先して宥和政策を採用するという姿勢の現れでもあった 一方、この協定の眼目は協定そのものよりも協定の付属合意に組み入れられた京奉鉄道借款契約に関する英露両国の了解にあったとみなす指摘がある。すなわち、イギリスは山海関から満洲へと進む鉄路を自今建設することはできなくなってしまったが、その一方で京奉鉄道を清国管理による清国保有の鉄道というかたちで譲歩することにより、京奉鉄道におけるイギリスの既得権を一定程度ロシアに認めさせることに成功したというのである。 ソールズベリー侯の外交政策は、必ずしも従来「栄光ある孤立」と固定的にいわれてきたような単純な孤立主義ではなかったことが明らかになってきているが、この協定も19世紀末葉のイギリスがロシアやフランスとの協調を常にうかがってきたことを示す好例といえる。そのような傾向は義和団の乱勃発後も続き、1901年11月5日の閣議で外相ランズダウン侯爵によって対ロシア交渉停止の提案と日英協約草案が提出される、その直前まで、日本との交渉よりも対ロシア交渉が常に優先されてきたのであった。日英同盟は、ロシア帝国がこの協定に反して京奉鉄道建設を侵害するという事態が生じて初めて具現化するのである。
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