後方支援部門
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「大陸軍 (フランス)」の記事における「後方支援部門」の解説
輜重兵 ナポレオンの語録の中でもよく引用される言葉は「軍隊は胃で行進する生き物」である。このことは軍隊の兵站の重要性を明確に表したものである。大陸軍の部隊は各人に4日分の食料を与えられていた。これに従う荷車には8日分が積まれていたが、これは緊急時にのみ消費されるものだった。ナポレオンは兵士達が狩猟採集と食糧の徴発(略奪、La Maraude)で日々を暮らしていくことを勧めていた。 補給物資は作戦開始前に建設しておいた前進基地や倉庫に蓄えられた。これらの物資は軍隊が前進するにつれ前方に移動された。大陸軍の補給基地から軍団や師団の補給庫に物資が配られ、そこから旅団や連隊の輜重部隊に配られ、各部隊には狩猟採集の量を補うだけの食料が配られた。狩猟採集に対する依存度は政治的な圧力で決まることがあった。友好的な国の領土を通過するときは、「その国が供給するもので食っていけ」といわれたが、中立の立場をとる国を通過するときは、補給の問題が生じた。大陸軍が5週間に渡って1日15マイル(24km)の速さで行軍することを可能にしたのは、上記のような計画によるもの半分、行き当たりばったり半分の兵站であった。 兵站のしくみを助けたのがこれも技術的な革新であり、例えばニコラ・アペールが発明した今日の缶詰につながる保存食の技術であった。 医療関係者 医療関係者ほど栄光とも権威とも関係の薄い部門は無かったが、彼らは戦闘後の恐ろしい光景に対処する必要があった。あらゆる旅団、師団、軍団にはそれぞれの医療関係者がおり、衛生兵は負傷者を見つけて運び、看護兵は介護や看護を行い、他に薬剤師や医師、外科医がいた。これらの医療関係者には、しばしば訓練の足りない者や不適切な者がいて他の仕事を担当する部隊もあった。大陸軍の医療の状態は、当時のあらゆる軍隊と同じく原始的なものであった。戦闘よりも負傷や病気で死ぬ者の方が多かった。衛生や抗生物質に関する知識も無かった。外科施療といえばそれは切断であった。麻酔とは、強いアルコールを飲ませること、あるいは時によって患者を殴って意識を失わせることであった。大体手術を受けた患者の3分の1しか生き残れなかった。 ナポレオン戦争の間、軍隊の医療技術や施療技術は大きな進歩を生まなかったが、大陸軍では医療関係者の組織化では改善の恩恵を受けた。外科将軍のドミニック・ジャン・ラリー(フランス語版、英語版)男爵の提唱になるいわゆる空飛ぶ救急システムである。戦場でフランス軍空飛ぶ砲兵隊が行っているその移動速度を観察したラリー将軍は、これを負傷者を迅速に運び、訓練された御者と衛生兵と担架運搬要員のいる馬車に乗せる仕組みに置き換えた。これは現代の軍事救急システムの先駆けであり、続く数十年間に世界中の軍隊によって採用されることになった。ラリーは移動力を上げ、野戦病院の組織を改善することにより、現代の移動陸軍外科病院の原型を作った。 負傷者の苦難についての証言を読むと恐ろしいものがある。ナポレオン自身も「死ぬよりも苦痛に耐える方が勇気がいる」と言ったことがあった。彼は生き残った者達にフランス中でも最善の病院で静養できるような保証を与えた。さらに傷痍軍人は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給と必要ならば義肢も与えられた。負傷者が迅速に世話され、栄誉が与えられ、帰郷後の面倒を見られることが知れ渡ると、大陸軍の中の士気も高揚し、戦闘能力を上げることにもなった。 情報通信 以下に述べる情報通信は、確かに少なからぬ基本的支援業務であった。ほとんどの命令は、それまでの数世紀と同様に馬に乗った伝令によって運ばれた。騎兵はその勇敢さと騎馬技術によってこの任務を課されることが多かった。短距離の戦術的な信号は視覚的には旗で、聴覚的にはドラムや軍隊ラッパ、トランペット、など楽器で伝えられた。これらの旗手や楽器奏者は象徴的、儀式的、また士気を上げる機能に加えて重要な情報通信の役割を果たした。 大陸軍はフランス革命の間には長距離の情報通信手段に革新的なものを得られなかった。フランス軍は大規模かつ組織的な形で伝書鳩を伝令に採用し、また観測用熱気球を偵察と通信に用いた最初の軍隊である。しかしクロード・シャップによって発明された巧妙な光学的テレグラフ信号装置(腕木通信)という形で長距離通信の本当の進歩が得られた。 シャップの装置は、互いに目視できる距離に置いた小さな塔の入り組んだネットワークであった。塔は9mの高さがあり、その最頂部に3本の大きな木製の稼動棒(腕木)が取り付けられた。この棒はレギュレター(regulateur)と呼ばれ、プーリーと梃子を使って訓練された操作員によって操作された。腕木の位置によって4つの意味があり、その組み合わせで196通りの信号になった。習熟した操作員がおり、悪くない視界が保たれておれば、パリ=リール間193km(123マイル)にある15の塔を経由して、わずか9分間で1つの信号を送ることができ、36の信号から成る電文は約32分間で送れた。パリからベニスの間でも、電文をわずか6時間で送ることができた。 シャップの腕木通信はナポレオンのお気に入りのひとつになり、最も重要な秘密兵器となった。特別の携帯版腕木通信装置を彼の作戦本部とともに移動させた。これを使ってナポレオンは長距離でも敵よりもはるかに短い時間で兵站と軍隊の戦略的調整を図ることができた。1812年には、荷車に載せた装置による通信の研究が始められたが、戦争そのものには間に合わなかった。
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