弓矢との比較
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 15:21 UTC 版)
16世紀の軍事研究者サー・ジョン・スマイスは、アーキバスは正確性の面で熟練射手の放つ弓矢に及ばないと論じている が、ハンフリー・バーウィックやバーナブ・リッチらは逆の意見を述べている。射程面では、アーキバスは35度の角度で発射すれば1キロメートル以上まで弾を飛ばすことができ、この点では明らかに弓矢を上回っていた。人を殺傷できる射程距離は約400ヤード(365メートル)だったが、スペインが用いた重マスケットではこれが600ヤード(548メートル)まで伸びたという。日本が朝鮮に侵攻した際、朝鮮の将軍の一人が朝鮮側が極度に不利に立たされていた理由を分析しているが、それは日本軍が用いるアーキバスが「数百歩先まで射程に収めていた」ためだとしている。スマイスは1590年の著作で、そうした距離からアーキバスやマスケットで撃ってもほとんど標的に当たらないだろうことを指摘し、代わりに「有効射程」の概念を提唱した。彼は、百年戦争で活躍したイギリス兵のような熟練弓兵ならばアーキバスやマスケットと比べて200ヤードから240ヤードも長い有効射程を持っていたと主張していたが、スマイスの理論を実証できる弓の使い手は当時イングランドにいなかった。 最も優れた弓兵ならば、一発装填して撃つのに30秒から60秒かかるマッチロック式アーキバスよりはるかに高い速度で矢を放つことができた。ただし弓類の中で最も強力なクロスボウと比べれば、アーキバスは装填速度でも破壊力でも優れていた。また弓を引くのに力と技術が求められる弓兵と異なり、アーキバス兵はその威力が個人の膂力に関係せず、それゆえ弓兵やクロスボウ兵と比べてより簡単に適性のある兵を雇用することができ、兵士個人で見ても、疲労や栄養不良、病気による戦闘力の低下が少なく済んだ。さらにアーキバスは、その爆音で敵兵や馬を驚かせる効果もあった。風による影響はアーキバスも逃れられないが、弓よりははるかに少なかった。城塞を防衛する際には、アーキバスは銃眼のような小さな隙間から外へ撃ちかけられるという利点もあった。一部の説では、近距離での戦闘ではアーキバスに複数の弾を装填したり、小弾を詰めた原始的な散弾が用いられたりしたとも言われている。小弾を用いると敵一人に与えるダメージは落ちるが、同時に複数の敵を傷つけることができた。 おそらくアーキバスの最も大きな利点は、戦争で使えるだけの兵士に育てるための訓練が、弓と比べはるかに短く済んだことである。ほとんどの弓兵は正確に素早く射撃するために何年も、場合によっては一生をかけて研鑽を積まなければならなかった。対するアーキバス兵は、数か月の教育と反復練習を経ればもう十分通用する能力を得ることができた。この訓練の簡素化は、少数精鋭よりも数を重視する軍事思想につながった。その結果、16世紀から17世紀にかけて、軽武装で機動力のある銃歩兵が軍隊の主力となる軍事革命が起き、長弓の衰退と近代歩兵の登場につながった。 また補給面では、かさばる矢を必要とする弓やクロスボウと異なり、銃の弾薬はよりコンパクトかつ大量に輸送することができた。その生産についても、矢は高度な技術を持った職人が一本ずつ作るのに対し、弾や火薬はいったん技術が確立されたのちは大量生産することが可能であった。 一方で、アーキバスは雨や湿潤な天候などにきわめて弱いという欠点があった。コムネロスの反乱中のビジャラールの戦いでは、嵐のせいで反乱軍の武器が使い物にならなくなり、彼らは惨敗を喫した。また火薬は、適切に扱わなければ矢よりもはるかに早く劣化するうえ、生産や保管、輸送といったあらゆる工程が爆発事故の危険と隣り合わせだった。その上、火薬の原料となる資源は地域的に偏っていた。矢は一度使った後に回収して状態の良いものを再使用することで戦闘や訓練のコストを抑えることができるが、銃弾は探し出すのも再使用するのも難しかった。規格の面では、銃弾はアーキバスの口径に合わせて適切なものを弓矢以上に厳密に選ばねばならず、国内の生産拠点で規格化を行う必要があり、それゆえ戦場で死んだ敵兵のアーキバスを拾って使うことも難しかった。 兵士がアーキバスを運用する際も危険が付きまとった。マッチロック式アーキバスを用いるときには、同じ人間が火薬袋と火のついた火縄を同時に持たなければならない。しかも多数のアーキバス兵が密集して戦う際には、隣の兵士の火薬や火にも気を配らなければならない。特に戦闘中の混乱の中では事故の危険も高まり、アーキバス兵にとって敵兵のみならず自分たち自身もまた危険な存在となった。また初期のアーキバスは反動が非常に強く、扱いが難しかった。戦闘時の運用においては、その長い装填時間のあいだ無防備になるという致命的な問題があった。これを解決するため、複数の戦列に分かれて他の列が射撃している間に装填するという戦法が開発されたが、これにも銃身が過熱したり詰まったりして、ひどいときには爆発して銃手や周囲の兵に被害がおよぶ恐れがあった。 貫通力の面では、アーキバスは弓よりも強力で、一部の重く高価なプレートアーマーを除けば、あらゆる甲冑を貫くことができた。命中する角度によっては胴鎧に弾かれる(跳弾)こともあった。一般兵が使用する革、軽いプレート(鉄板)、鎖帷子などでできた防具は、アーキバスの前には無力だった。これと比べて弓矢は貫通力や殺傷力に乏しく、それを補えるような強力な弓やクロスボウには扱いの難しさや装填時間の面で難があった。 アーキバスの特徴としては、他にその砲煙が挙げられる。一斉射撃の後では、風がないと敵を視認することが難しくなった。しかし同時にこれは、敵の弓兵や銃兵に狙われにくくなるという利点もあった。ただ常時燃えている火縄を用いるため、弓や後に開発されるホイールロック式以降の銃と異なり、夜間の隠密性は期待できなかった。昼間でも、たった一発のアーキバスが発砲しただけでも砲煙が目立つため、継続的に隠れて撃つのは難しかった。 弓矢やクロスボウなら静かに標的を排除できるが、爆音を発するアーキバスでは不可能であった。またこの爆音は、指揮官が命令する声が聞き取りにくくなる問題もあった。それどころか、耳元で爆音が鳴るのを繰り返した銃手は聴覚を永久に失う恐れさえあった。 弓矢やクロスボウには、大きな角度で放てば、正確性は期待できないものの、手前の障害物をこえて攻撃できるという利点があった。このため、前列でアーキバス兵が射撃し、その後ろから長弓兵が山なり射撃をするという戦法も見られた。なお前述のとおり長弓を重んじていたスマイスは、一部のイングランドの将軍がこの戦法を取っていることについて、長弓が標的を視認できず正確性が落ちるために、長弓の有効性を貶めるものだとして非難している。 結局のところ、ルネサンス初期を境に、投射武器の市場はアーキバスが独占し、弓矢を駆逐する所となった。大量生産と訓練の短期化という利点は代えがたいものであった。また技術が進歩するにつれて銃の欠点も埋められていき、弓矢は完全に時代遅れのものとなっていった。
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