多聞隊の成功
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沖縄戦も終わり、敗色が濃くなった1945年7月に、第6艦隊は、日本海軍の作戦可能な全潜水艦兵力を回天作戦に投入することとし、伊47潜、伊53潜、伊58潜、伊363潜、伊366潜、伊367潜の6隻を出撃させた。多聞隊という部隊名は、日本本土への侵攻に対抗するべく武神多聞天から採ったものであった。 この多門隊は、海上において通商破壊を任務としており、各艦は沖縄と太平洋上のアメリカ軍各拠点を結ぶ補給線上でアメリカ軍船団を待ち構えていた。7月24日に伊53潜は戦車揚陸艦7隻、輸送艦1隻と護衛の護衛駆逐艦 アンダーヒル 他数隻で編成された船団を発見し、勝山淳中尉が搭乗する回天1基を射出した。まもなく護衛艦隊が回天を発見し爆雷攻撃を加えたが、護衛艦もパニックに陥っており、射出された回天は1基だったのにも関わらず、何本も潜望鏡が見え、日本軍の特殊潜航艇数隻が攻撃してきたと誤認した。そのうち1つの潜水艇らしきものを発見したアンダーヒルは、衝突してその潜水艇を撃破しようと前進したが、勝山艇はアンダーヒルと衝突後に大爆発を起こして、アンダーヒルはあっという間に真っ二つになり、一瞬で10名の士官と102名の水兵が戦死した。アンダーヒルの艦体の前部はたちまち海没したが、残った後部はしばらく浮いていたため、他の艦の砲撃によって処分された。アンダーヒルの沈没は、日本軍潜水艦がフィリピン沖という外洋で積極的に作戦行動しているという衝撃的な情報であったが、なぜかこの情報がアメリカ海軍内で共有されることはなかった。 伊53潜はそのまま回天作戦を続行していたが、8月4日、不意に大量の爆雷攻撃を受けた。新兵器の三式探信儀で探索したところ、伊53潜が気づかないうちに半径1,000mで5隻の敵艦に包囲されていることが判明した。艦長の大場佐一大佐は、30mから回天の耐圧深度80mを超える100mまで艦を激しく上下させたり、艦を激しく左右に急旋回させて爆雷を回避するよう命じた。しかし投下された爆雷は100個以上となり、大場も今まで経験したことのない窮地に追い込まれた。搭載していた回天4基のうち2基も損傷により使用不能となったが、残る2基の搭乗員関豊興少尉と荒川正弘一飛曹が、このままやられるよりは、乾坤一擲、死中に活を求めたいと出撃を直訴し、大場も最後の望みと考え出撃を許可、2基の回天は頭上で爆雷攻撃中の敵艦に突入するという困難な任務となったが、2基のうちの1基がバックレイ級護衛駆逐艦アール・V・ジョンソン (護衛駆逐艦)(英語版)の至近で爆発、同艦は主機関と舵取機が損傷し戦線離脱を余儀なくされ、伊53潜は窮地を脱することができた。 伊58潜は広島と長崎に落とされた原子爆弾(核部分)をテニアン島まで運び、1945年7月30日にレイテ島へ単独航行中であった重巡洋艦インディアナポリスを発見、橋本以行艦長は敵艦は真っすぐに向かってきたことから、発見されたものと考え(実際には発見されていなかった)、攻撃後に即潜航することが必要と考えて、回天搭乗員の出撃要求を抑えて通常魚雷6本を発射、うち2~3本が命中してこれを撃沈した。 伊58潜はその後もこの海域に留まり、回天作戦を継続して、4基の回天を射出していた。8月12日には、ラッデロウ級護衛駆逐艦トーマス・F・ニッケル (護衛駆逐艦)(英語版)とアシュランド級ドック型揚陸艦オーク・ヒル (LSD-7)(英語版)(橋本は15,000トン級の水上機母艦と誤認)の船団を発見、橋本は残った2基のうち1基の回天(林義明一飛曹搭乗)の射出を命じた。オーク・ヒルは回天の潜望鏡を発見し、トーマス・F・ニッケルが攻撃に向かったが、回天はそのトーマス・F・ニッケルの側面に命中した。しかし、命中した角度が浅かったため信管が作動せず、林艇はトーマス・F・ニッケルの側面をこすったのちに、同艦から25m離れたところで爆発した。林が信管の起動スイッチを押して自爆したものと思われる。回天の慣性信管はしばしば同様に命中しても、角度が浅く起動しないことがあった。金剛隊の攻撃で損傷した輸送艦ポンタス・H・ロスも同様に回天が命中しながら、信管が起動せずに小破で止まっている。搭乗員は突撃の際には安全装置を外し、敵艦への突入角度が足りなくても突入と同時に信管が作動するよう自爆装置に腕をかけるなどしていたが、個々人の覚悟と工夫だけでは限界があった。九死に一生を得たトーマス・F・ニッケルであったが、受けた衝撃は大きく、なおも数基の回天が同艦を攻撃していると誤認して、2時間に渡って幻の回天相手に転舵と回避を繰り返しながら、爆雷を投下し続けるという独り相撲を取り続けたが、船団に被害はなかった。残った1基の回天は故障していたためこれが回天最後の出撃となり、故障した回天の搭乗員の白木一郎一飛曹は生還した。 多聞隊は戦果を挙げながら、6隻全艦が無事帰投している。アメリカ軍は多聞隊の動静を出撃前から掴んでいたが、大戦末期で自信過剰となっていたのか、情報の共有や日常の哨戒活動が徹底されておらずに終戦直前に手痛い損害を被ることとなった。日本海軍からすれば多聞隊は1隻の潜水艦を失うことなく、回天の初陣となった「菊水隊」を超える戦果を挙げて、回天作戦の有終の美を飾ることができ、アメリカ軍からも、戦争終結前の日本海軍の大きな成功と評された。 多聞隊編成 部隊名潜水艦名出撃日作戦海域搭載回天-発進状況多聞隊 伊53潜 1945.7.14 沖縄フィリピン線上 6基-4基 多聞隊 伊58潜 1945.7.18 沖縄パラオ線上 6基-5基 多聞隊 伊47潜 1945.7.19 沖縄東方海域 6基-0基 多聞隊 伊367潜 1945.7.19 沖縄グアム線上 5基-0基 多聞隊 伊366潜 1945.7.19 沖縄グアム線上 5基-0基 多聞隊 伊363潜 1945.8.1 沖縄日本本土線上 5基-0基
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