十和田火山との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:37 UTC 版)
この三湖伝説は、実際に起きた自然災害との関わりが指摘されている。915年十和田湖にあった火山は2000年来最大とも言われる大噴火を起こす。この噴火によってもたらされた噴火降下物は各地で堆積し、自然のダムを造った。ダムは周囲を水浸しにしながらも最終的に決壊し、各地で大洪水を起こす。秋田県北秋田市の胡桃館遺跡もこの時の洪水によって地下に埋まった遺跡である。そして、まさにこの被害を受けた地区に八郎太郎の伝説が残っているのである。 たとえば、南祖坊と八郎太郎の七日七晩の戦いは、稲妻を投げ合ったり、法力を駆使したりの壮絶なものであるとする表現があるが、これが十和田湖火山の噴火の様子を記述しているという人もいる。また、七座山の伝説に残っている「白鼠」は火山降下物が堆積し流れ下るシラス洪水なのではないかと指摘されている。 このことは、1966年に平山次郎・市川賢一によって「1000年前のシラス洪水」という論文で発表された。この論文は八郎太郎の伝説を十和田噴火と結びつけた初めての論文であると考えられる。 1912年(明治45年)の『荷上場郷土誌』(石井修太郎)でも、三湖伝説は火山の噴火によるものであると指摘されている。火山から流れた土砂が「白土」という灰白土で、米代川沿岸に限りこの白土があることを指摘しており、噴火後数百年間米代川が白濁し、その伝説がだんぶり長者伝説として残されたのではないかとしている。さらに、米代川沿岸から白土の流出によって、家具や陶器、大木が出土することもその証拠とした。 (早川由紀夫 1997)では、915年の大噴火の根拠は『扶桑略記』に「7月5日の朝日が月のようだったので人々は不思議に思った。13日になって出羽の国から、灰が降って2寸積もった、桑の葉が各地で枯れとの報告があった」(暦はいずれも宣明暦)という記録としている。下流の胡桃館遺跡に、902年の年輪を持つ杉材が火山灰におおわれていることも根拠としている。また、火山灰が十和田火山の西側や南側に流れているのは、この地区の夏の季節風であるやませによるものとしていて、「八郎太郎ものがたり」はこの時の噴火の模様をあらわしたものとしている。 十和田火山の915年の大噴火は、日本の歴史書に直接記載されていない。田中俊一郎はこれを878年の元慶の乱の経緯で「異説」の立場を採り、米代川流域が蝦夷の「秋田河以北を己が地となさん」という要求が通り、彼らのものになったからではないかとした。その証拠として胡桃舘遺跡から発掘された板状木簡や土器が大和朝廷支配地には見られないことなどを根拠としている。 米代川流域では過去たくさんの埋没家屋が出土している。 807年(大同2年) - 伝説では南祖坊が八郎太郎を追い払うとされる 915年(延喜15年) - 十和田火山の大噴火 10世紀中葉 - 天台寺が寺としての体裁を整えたと考えられる 1410年~20年代 - 『三国伝記』成立 1775年(安永4年)4月 - 大館市大披で埋没家屋出土 1793年(寛政5年)~1797年 - 大館市板沢で埋没家屋出土 1817年(文化14年)6月 - 小勝田村(北秋田市脇神字小ケ田)で埋没家屋出土 1865年~68年(慶応年間) - 向田崖(大館市引欠川流域)で埋没家屋出土 1933年~34年(昭和8~9年) - 能代市二ツ井町天神(麻生)で埋没家屋出土 1964年~66年(昭和39年~41年)- 大館市比内町扇田小谷地で発掘調査 1965年~(昭和40年~) - 北秋田市綴子胡桃館で胡桃舘遺跡の発掘調査 1999年(平成11年) - 大館市道目木で埋没家屋出土 2003年(平成15年) - 北秋田市綴子字谷地川上ほかの掛泥道上遺跡の報告書が出る 2015年(平成27年) - 片貝家の下遺跡の発掘調査開始 江戸時代の1817年(文化14年)に黒沢(二階堂)道形は『秋田千年瓦』で北秋田市脇神字小ヶ田から出土した埋没家屋を元に、三湖伝説やこの地区の地形の変化を考察している。 また、江戸時代の長崎七左衛門による古文書に次のような記載がある。1817年6月の洪水で北秋田市脇神字小ヶ田から埋没家屋が出土し、埋没家屋が破損せず障子の板に墨で描いた牡丹の絵があるなど、埋まる前のそのままの形で出てきたことから、これは地震や山崩れではなく、七座神社の縁起にある「大同2年(807年)六月二十一日、潟の八郎という異人が七倉山の所で米代川をせき止め、鷹巣盆地は三年にわたって水底となった」より、このため埋没家屋が出来たという説を紹介している。また、今まで埋没家屋が出たのは34軒だとしている。七座神社の縁起というのは『七倉山天神縁起』のことで1766年(明和3年)に神宮寺烈光によって記された書だが、実は弟の般若院英泉が起草したもので、北秋田市綴子の内舘文庫にはその草稿が残されている。さらに、ほとんど同じ内容の複数の書が大館市栗盛記念図書館に所蔵されている。菅江真澄や黒沢道形は小勝田の埋没家屋の成因は天長地震だと言い切っているし、昭和時代にも地震学者の今村明恒も地震説を唱えている。それに対して、長崎七左衛門は埋没家屋を実際に見分し水没説を採っている。 当時の被災者の状況は長崎七左衛門は埋没家屋の状態から「棚の上に犬の骨らしきもの1本、あるいは、家の中には神棚仏壇も、家財道具も生き物の骨すらないのは、早くに高台に逃れたからだろう」と推測している。また秋田藩の奉行だった瀬谷五郎右衛門は、大披から出土した埋没家屋のなかには、机の足に「永正8年(1511年)末8月」という日付が書かれていたものがあることを記録している。 2015年に発見された片貝家ノ下遺跡では、屋根の残存する伏屋形式の竪穴住居が検出された。遺跡全体の10%程度の試掘調査は竪穴住居跡が13棟、竪穴掘立柱併用建物1棟、掘立柱建物3棟、水田跡などが残されており集落がそのまま残っている可能性がある。
※この「十和田火山との関わり」の解説は、「三湖伝説」の解説の一部です。
「十和田火山との関わり」を含む「三湖伝説」の記事については、「三湖伝説」の概要を参照ください。
- 十和田火山との関わりのページへのリンク