十和田神社の歴史とは? わかりやすく解説

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十和田神社の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:44 UTC 版)

十和田神社」の記事における「十和田神社の歴史」の解説

十和田神社創建についての縁起2つある。1つ十和田神社創建807年大同2年)で、征夷大将軍坂上田村麻呂東征のおり湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダ組んで渡ったという。もう1つは、南祖坊に関わる伝説である。 かつて十和田湖は、十和田青龍権現祀る神仏習合霊山であり、熊野日光比すべき北東北最大山岳霊場であった。それはまた、僧侶修験者山岳修行の場であり、民衆信仰登山山岳修行の山であった十和田神社は、明治初年神仏分離以前は「額田熊野山十灣寺」を号する神仏習合寺院であり、十和田青龍権現祀り現在の拝殿の場所に観音本地仏として安置する仏堂十和田御堂」が建っていた。また、十和田神社の右奥の岩山を登った先の台地 は、南祖坊が入定青龍権現となった伝え中湖なかのうみ)と「カミ」の宿る御蔵(おぐら)半島の「御室(おむろ)、奥の院」をのぞむ神聖な場所であり、台地降りた中湖水際には、参詣者が占い祈り散供打ち)を行う占場(オサゴ場)があった。 その頃十和田湖自体聖域であり、十和田火山外輪山内側は本来、女人禁制世界であった。人々はその全体を「十和田山」と名付けカミの住む山の意味で「御山(おやま)」と呼んだ外輪山への登り口は、御山に入る入り口になっており、川や滝、鳥居神社俗界聖域分け最初結界となっていた。そして、参詣者が長い山腹の道を登りきって最初外輪山山頂の峠に至った時、突如視界開けて眼下湖水広がる、そこが第二結界であり、湖を礼拝する遥拝所置かれ、峠を下った湖畔には最初散供打ち場「占場」が設けられた。人々はさらに湖畔長い道をたどり、第三結界解除川(はらいかわ、現在の神田川)でみそぎを行ったあと、林立する鳥居杉並木の参道通って御山中心十和田御堂至った十和田湖休屋置かれた十湾寺を盛岡藩は外からの勢力対し保護し十和田湖周辺には熊野系の修行をしない他勢力寄せ付けなかった。そのため、出羽津軽?)の山伏ははるか御鼻部山から参拝して戻るしかなかった。明治時代初期初め休屋開拓した栗山新兵衛目的は、盛岡藩犬猿の仲であった弘前藩対す国境警備のための屯田開発最大理由であった。十湾寺への参拝者江戸時代には盛岡藩領全域からが主になっていたが、他に八戸藩からと、遠く仙台藩からの参拝者もいた。しかし、弘前藩秋田藩からの参拝者記録されていない

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