北イタリア侵攻と死
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452年、体勢を立て直し、皇女ホノリアとの結婚を改めて主張したアッティラは、北イタリアに侵攻して道々で略奪を行った。ヴェネツィア市は、人々がこれらの攻撃からヴェネタ潟の小さな島へ避難したことによってつくられた。アクイレイアは跡形もなく完全に破壊されてしまった。アッティラはアクイレイアの市街が燃える様を見るために丘の上に城を築き、これがウーディネの街の基になったという伝説があり、今なお城跡を見い出すことができる。ミラノには、町を占領したアッティラが、宮殿にあった皇帝が蛮族を踏みつける壁画を、東西の皇帝がアッティラに黄金の袋をふりまく絵に描き変えさせたという伝説がある。 ガリアのアエティウスは来援せず、近衛司令官アエティウス(フラウィウス・アエティウスとは同名異人)が少ない兵力で繰り返し急襲をかけて、なんとかアッティラの進軍を遅らせていた。アッティラは最終的にポー川で停止した。おそらく、この地点で疫病と飢餓がアッティラの陣営で発生しており、これが侵攻を止めさせた。 ウァレンティニアヌス帝の望みにより、ローマ教皇レオ1世が元執政官アヴィエヌス、地方総督トリゲティウスとともにマントヴァ近郊のミンチョ川沿いの陣営でアッティラと会見し、イタリアから退去して皇帝と和平を結ぶ約束をとりつけた。アキテーヌのプロスペルがこの歴史的会見についての短く信頼できる描写を残している。後年の作者不明の記録、敬虔な「ラファエロの筆やアルガルディの彫刻で表された寓話」(とキボンは述べる)は、聖ペトロと聖パウロの助けを受けた教皇が町から彼を引き返させたと述べている。中世ハンガリーの年代記によると、教皇はアッティラへ、もしも平和裏にローマから去るならば、彼の後継者の一人が聖なる王冠を受け取るであろうと約束している。410年にローマを略奪して程なく死んだアラリック1世の運命への迷信的な恐怖が彼を躊躇させた、と歴史家プリスクスは述べている。 イタリアを去った後、アッティラはドナウ川を越えて彼の宮殿へ帰り、再度のコンスタンティノープル攻撃を計画し、東ローマ皇帝マルキアヌスが止めた貢税を再び要求した。だがアッティラは453年前半に死去してしまった。歴史家プリスクスによる同時代の記録によると、美しく若いイルディコ(もしも発音が濁っていなければ、ゴート族出身を思わせる)との結婚式の宴会の最中にアッティラは大量の鼻血を出し、意識を失って窒息死したとある。他の見方として、彼は大量の飲酒か食道静脈瘤によって内出血を起こして倒れたと考えられる。 年代記編者マルケリヌス・コムスの80年後の記録によれば、「フン族王であり、ヨーロッパ各地の破壊者であるアッティラは、彼の妻によって刺殺された」とある。ヴォルスンガ・サガと古エッダもまた、彼の妻グズルーンの手によって死んだと述べている。多くの学者はこれらの記録を風評に過ぎないと否定し、アッティラと同時代の歴史家プリスクスの記録を採る。だがプリスクスの記録は近年マイケル・A・バブコックによる新たな検証を受けており、詳細な文献学的検証によって、自然死という記録は教会による「でっち上げ」であって、東ローマ皇帝マルキアヌスが彼の死の背後にあると結論付けている。 歴史家ヨルダネスは「最も偉大な戦士は女々しい哀歌や涙ではなく、男たちの血によって悼まれるべきである」と語る。ヨルダネスやカッシオドルスによれば、騎士たちがアッティラの眠るテントの周りを駆け回り、「誰が一人も復讐を要求すると信じないとき、これを死とみなせようか?」と葬送歌を詠ったという。それから彼らは盛大な宴会とともに、彼の埋葬地で哀歌(strava)を詠った。伝説によればアッティラの遺体は征服で得た戦利品とともに金、銀、鉄の三重の棺に安置された。男たちが川の一部の流れを変えて棺を川底へ埋めて流れを元に戻し、彼らは埋葬地の正確な場所の秘密を守るために殺されたという。 アッティラの息子たちエラク、デンキジックそしてイルナックは遺産を巡って争った。その結果彼らは分裂し、翌454年、生前アッティラが最も重んじた族長アルダリック率いる東ゴート族とゲピート族にネダオ川の戦いで敗れて潰走した。同じく454年に、西ローマ帝国のアエティウスは皇帝ウァレンティニアヌス3世に殺され、自ら帝国の支柱となる将軍を殺したウァレンティニアヌス3世自身もその翌年の455年にアエティウスの元部下によって暗殺されている。 アッティラの子や親族の名と動向は何人かは分かっているが、確かな系譜は消え失せ、アッティラの子孫を確証しうる手だてはない。しかしこのことは、多くの系図学者たちが中世の統治者たちのために正統な系図を再現しようとする試みを止めることにはならなかった。最も有望な主張はブルガリア汗によるものである。最も有名な、だが最終的には確認されていない試みは、アッティラとカール大帝とを結びつけるものである。
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