北イラクの虐殺と第二次大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 07:20 UTC 版)
「アッシリア人」の記事における「北イラクの虐殺と第二次大戦」の解説
第一次大戦が終結する以前より高まっていたアラブ人の民族主義の影響で、1932年に国際連盟による委任統治の終了と同時にメッカの太守(シャリーフ)であったハーシム家の男子がアラビア各地で王国を立て、メソポタミアでは三男ファイサル1世がイラク王国の王となった。 自治権を求めて闘争を続けていたアッシリア人に対する弾圧は深まり、翌年には当時の内相ヒクマット・スレイマン(Hikmat Suleyman)が、アッシリアの独立運動はかつて彼らをアラブ・クルドの弾圧に利用したイギリスが裏で操っていると述べた。これを受けて同年8月にはクルド人将校バクル・シドキ率いるイラク軍とクルド人部族によるアッシリア人の虐殺が発生。犠牲者は婦女子を含めて3000人とされ、現在も続くアッシリア人とクルド人の対立の一要因となった。同年総主教は軟禁され、総主教座のキプロスへの移転を強要させられた。この事件の前後に国王は体調を崩して療養のためにスイスに渡り(その後ほどなくして薨去)、ほぼ同時期に800人ほどのアッシリア人がかつて住んでいたシリアとの国境地帯へと戻っていった。 第二次世界大戦が始まると、イラクはかつての統治国イギリスの要請でナチス政権下のドイツと断交したにもかかわらず、ラシード・アリー・アル=ガイラーニーら反英派は英国ほか連合軍に対する反発から枢軸国を支持。 一方アッシリア人を集めたアッシリア植民地連隊はイラク軍の略奪行為にかつてのアッシリア人虐殺を思い起こし、相変わらず英国を支援し続けたため、英軍の北アフリカ戦線での作戦を成功に導き、国内の反英派(親独派)を主流から叩き落として親英派を復興させるのに重要な役割を果たした。
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