北インドへの遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/23 15:38 UTC 版)
「ラグナート・ラーオ」の記事における「北インドへの遠征」の解説
マラーター王国の宰相バーラージー・バージー・ラーオの弟であるラグナート・ラーオは、マラーター同盟の領土拡大のために北インドにたびたび遠征していた。 1753年から1755年にかけては、ラグナート・ラーオは北インドのジャート勢力に攻撃を行い、マラーター側に有利な条約を締結して帰還した。 1750年代になると、アフガン勢力ドゥッラーニー朝がパンジャーブ地方に進出し、北インドに進出していたマラーター同盟と対立するようになっていた。1757年1月にはムガル帝国の首都デリーに入城し、2月にはデリー及びその周辺地域を略奪した。 バーラージー・バージー・ラーオはすぐにラグナート・ラーオをデリーに送った。だが、同年8月に彼がデリーの戦いでアフガン勢力を破ったときには、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはすでに退却していた。 1758年3月、ラグナート・ラーオはパンジャーブのラホールへと兵を進め、4月20日にアフマド・シャー・ドゥッラーニーの息子ティムール・ミールザーからラホールを奪い、同月28日にはアトックを、さらに5月8日にはペシャーワルを占領した。 そして、パンジャーブ一帯を占領したのち、同月にラグナート・ラーオはラホールからプネーへと帰還した。
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