北インドへの侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/01 06:16 UTC 版)
「ナーディル・シャーのムガル帝国侵攻」の記事における「北インドへの侵攻」の解説
その後、ナーディル・シャーはムガル帝国の富を求めて、1737年にアフガニスタンへと侵攻した。インドとの中継地アフガニスタンにおいては、サファヴィー朝の衰退で1720年代にアフガン系ギルザイ族が支配するなど、イランもアフガニスタンの支配権を失っていた。 同年4月、ナーディル・シャーはギルザイ族の支配していたカンダハールを包囲した。ナーディル・シャーはこの都市が正面攻撃のみで陥落させることはできないことをわかっていたので、町の周りにいくつかの砦を築きたばかり、ナーディラーバードと呼ばれる要塞に軍を駐屯させた。 また、カンダハール包囲戦と並行して、バンダレ・アッバースから東のバルーチスターンに向けて軍勢が出発し、ペルシア湾とマクラーン海岸に沿って行軍した。これは同地方を支配するカラートのハーンを服属させるためのものであった。 一年にわたる攻防戦の末、1738年3月12日にカンダハールを獲得した。カンダハールの陥落はギルザイ族によるアフガニスタン南東部支配の終焉を意味していた。 そして、ムガル帝国がアフガン人の統治を失敗したことを口実に帝国領へ侵攻した。両国のガズニーの南に画定されていた国境をイラン軍が越えたのは、1738年の初夏のことであった。彼はアフガニスタンの主要都市カーブルを占領し、アフガニスタン全域を支配下に置いた。 1739年初頭、イラン軍は北西インドにまで侵入し、帝国はパンジャーブのラホールが占領されたときになって、ようやく大急ぎで防衛準備を始めた。だが、派閥争いをしていた貴族らは派閥争いをやめず、防衛の指揮系統や防衛方法すら合意に至らずにあいまいなまま、ムハンマド・シャーを連れて戦場に赴いた。彼ら貴族は相互に猜疑心と嫉妬心に駆られていた。 1739年2月24日、デリーから110キロの地点カルナールで、ムガル帝国の大軍はイラン軍に打ち破られ、帝国軍は主だった指揮官をはじめ、数万人の犠牲を払う大痛手を被った(カルナールの戦い)。そのため、2日後にムハンマド・シャーはナーディル・シャーと講和を結ぶことにし、自らその交渉にあたった。ただし、それは事実上の降伏であった。歴史家ムヒーリスはその時の状況をこう記している。 「 「ムハンマド・シャーは自らペルシアの天幕に赴き、(略)2人の距離が近づくと彼自身が進み出て、ペルシアとムガルの両宮廷で慣例となっている作法が忠実に行われた。2人の君主は互いに手を取り合って、謁見用の天幕に入ると、横並びに置かれた玉座に座った。6時間に及んだ交渉の末、礼儀や親善が忘れられることはなかった。」 」
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