北イタリアへの移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:53 UTC 版)
ポリュビオスは、ケルト人をエトルリア人のすぐ隣に住んでいたとし、「彼ら(エトルリア人)の美しい国に羨望の眼差しを向けていた」という。ポー平原を大軍で侵略しエトルリア人を追い出したボイイ族は、中心のポー川の右岸に住み着いた。ストラボンによれば、アルプス山脈を越えて移住してきたケルト人の中でもボイイ族が最大の部族だったとしている。リウィウスはさらに、ボイイ族とリンゴネス族が Poeninus mons という西アルプスの峠(mons は峠の意)を越えて北イタリアに侵入し、アルプスとポー川の間に既に人間が住んでいるのを発見したとしている。彼らはポー川を筏で渡ってエトルリア人やウンブリア人をアペニン山脈の方に追いやり、そこに定住した。 リンゴネス族がマルヌ川やセーヌ川の上流域から来たように、ボイイ族はライン川上流とドナウ川上流の間のアルサティア地方からドナウ川を下ったバイエルン、オーストリア、さらにボヘミアあたりまでの地域に住んでいた。紀元前1世紀にはライン川を渡ってカエサルと戦うヘルウェティイ族を助けている。ゲルマン人のスエビ族は後にドナウ川左岸まで下ってくるが、そのころはドイツ中央部におり、ケルト人の脅威になっていなかった。 ボイイ族はエトルリア人の古い都市フェルシナを占領し、その周辺に定住した。後にローマ人がこの地に植民都市を築いた際、それをボノニア(Bononia、ボローニャの由来)と呼んだ。同様のローマ化したケルト地名としては、ウィンドボナ(Vindobona、現在のウィーン)もボイイ族の住む地域だった。ボノニアがケルト語の都市名に由来しているという説は有力である。 ボローニャとその周辺の考古学的証拠は、ポリュビオスとリウィウスの記述の一部とは相反している。彼らはボイイ族がエトルリア人を追い出し、その一部が去ることを余儀なくされたとしている。また、ポリュビウスは彼らが城壁のない村で小屋に住み、家具も持たず、落ち葉のベッドで寝ていたと記述している。彼らは農耕と戦争を生業とし、他の技術や科学知識を全く持っていなかったとしていた。その財産は金と牛であり、どちらも持ち運びが容易だった。 考古学的証拠によれば、ボイイ族はフェルシナの町を破壊したり住民を追い出したりしておらず、単にそこに移り住み、エトルリア人と結婚することで同化していった。その時代のボローニャの墓地からはラ・テーヌ文化の武器や他の工芸品が出土しており、ボイイ族とラ・テーヌ文化のつながりを示しており、同時に青銅製の鏡などのエトルリアの工芸品も出土している。それほど離れていないピアノーロでは、ラ・テーヌ文化の武器とエトルリア人の女性の名が刻まれた壷が同じ墓から出土している。 古代ローマの著作家が記したケルト人の生活は考古学的証拠が示すものよりひどい。ボイイ族はエトルリア人の財産や女性を横取りしたと思われるが、エトルリア人の作った都市にエトルリア人と共に住み、少なくとも全エトルリア人を追い出したわけではない。
※この「北イタリアへの移住」の解説は、「ボイイ族」の解説の一部です。
「北イタリアへの移住」を含む「ボイイ族」の記事については、「ボイイ族」の概要を参照ください。
- 北イタリアへの移住のページへのリンク