北イエメンでの独裁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 10:05 UTC 版)
「アリー・アブドッラー・サーレハ」の記事における「北イエメンでの独裁」の解説
共和国政府と王党派の亡命政府による北イエメン内戦が始まると各地を転戦して昇進を重ね、1977年にアフマド・ビン・フセイン・アル=ガシュミー(英語版)大統領からタイズ県の軍司令官に任命される。 1978年6月24日、ガシュミー大統領が暗殺されると臨時召集された最高行政委員会の一員として事態収拾にあたり、また若手将校ながら幕僚会議議長代理として軍参謀本部を統制した。7月17日、軍を押さえたサーレハは最高行政委員会から北イエメン共和国第6代大統領に任命され、国家元首として陸軍総司令官および陸軍参謀総長を兼任する事を宣言した。これが北イエメン共和国議会の承認を伴ったかは議論がある。 自らへの暗殺未遂として30名の将校を処刑するなど軍内で大規模な粛清を行い、軍人としても陸軍大佐に昇進するなど影響力を強めていった。軍権力を後ろ盾にした独裁が危惧される中、1期目の任期終了後にサーレハは諸政党を翼賛的に合流させる構想を発表。1982年8月30日に自身が党首を務める翼賛連合「国民全体会議」を組織し、同党により2期目を共和国議会に承認させた。 これ以降、実質的に議会は国民全体会議の一党独裁状態となり、党首であるサーレハの独裁体制が継続していくことになる。
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