八原博通第32軍高級参謀の「寝技戦法」について
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「沖縄戦」の記事における「八原博通第32軍高級参謀の「寝技戦法」について」の解説
大本営陸軍部は、1944年(昭和19年)8月19日に、アメリカ軍を相手にしたサイパン島の戦いやグアムの戦いの戦訓を十分に取り入れ作成した「島嶼守備要領」を太平洋各地の島嶼守備隊に指示している。同要領では特に、アメリカ軍の猛烈な砲爆撃に対抗できる陣地の選定要領や戦闘要領が強調されていた。また、大本営陸軍部第一課が前線からの報告を纏め編纂した「戦訓報」でも、サイパンの失敗と対策やペリリュー島の戦いの善戦は各部隊に伝えられており、沖縄戦に先立つ硫黄島の戦いでは戦訓を活かして坑道陣地による持久戦術を徹底し、アメリカ軍を苦戦させている。 八原の作戦計画も「島嶼守備要領」に沿うものであり、硫黄島と同様に戦訓を十分活かすべく、アメリカ軍やイギリス軍による砲爆撃対策として強固な陣地作りに心血を注いでいる。八原は講道館柔道家がアメリカの屈強なボクサーを相手に異種試合をしたときに、柔道家は終始寝技でボクサーの強烈なパンチを封殺し、遂に快勝したという講談からヒントを得ており、この作戦を『寝技戦法』と自ら称した。寝技戦法の中心は築城であり、連合国軍艦艇の艦砲射撃や1トン爆弾などの強烈なパンチがあっても、それを跳ね返す堅固な築城があれば、敵の物量を無価値にできると考え、戦車も対戦車築城を徹底させれば恐れるに足らずとも考えた。八原参謀は「不可能を可能にする唯一の道は強固な築城であり、洞窟戦法である。」との『寝技戦法』の基本方針を記した「必勝の途」というパンフレットを作り全軍に布告し、全将兵に徹底した築城を命じた。 対するアメリカ軍は、猛烈な砲撃で日本軍の反撃を封殺し、日本軍陣地の頂上に這い上がった歩兵が、日本軍陣地に黄燐弾を投げ込み、爆雷を投下し、ガソリンを流し込んで皆殺しにする『トーチ&バーナー戦術』で日本軍陣地を一つ一つ壊滅させていった。この対抗策として日本軍は、頂上を占拠された日本軍陣地に、隣接する友軍陣地の機関銃、擲弾筒、野砲で集中攻撃して、逃げ場のないアメリカ歩兵を殲滅する戦法で対抗した。これは、占拠された自軍の陣地をまな板のように見立てていることから『まな板戦法』と呼ばれたが、この戦法でもっとも猛威をふるったのが日本軍の擲弾筒であった。擲弾筒は沖縄戦でアメリカ軍兵士がもっとも恐れた兵器の一つで、前線で戦ったアメリカ軍兵士の評価は「それ(擲弾筒)はあらゆる兵器のなかでもっとも猛威をふるった」「擲弾筒の弾丸の飛んでくる音は目標となっている者には聞こえず、聞こえたときには手遅れだった。非常に大きな損害をこうむったものだ」「その砲弾をアメリカ軍の頭上に落下させることができたし、それほど弾着が正確でとくに嫌われていた」であった。歩兵第22連隊第1大隊(大隊長小城正大尉)は特に擲弾筒を有効活用してアメリカ軍を苦しめており、日本軍は通常は小隊ごとに4筒の擲弾筒を配備して使用していたが、小城は合計36筒の擲弾筒を大隊直轄として集中使用した。アメリカ軍は、攻撃部隊の中・小隊に集中砲撃を浴びせたこの小城の戦法を「異例なほど効果的なやり方」と評価している。 陣地構築に際しては、コンクリートなどの資材は不足していたが、沖縄の南部地域は、固くてツルハシも通らないような隆起珊瑚礁と柔らかい泥灰岩や砂岩で広く覆われており、それら地層をうまく活用して陣地が構築された。陣地構築については第32軍兵士の他、多くの沖縄県民も動員された。それで完成した隆起珊瑚礁の陣地は、アメリカ軍の砲爆撃でも容易には破壊されなかった。また、多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓がその堅牢な構造からトーチカ代わりに使われ陣地の一部となった。 実際に日本軍の陣地と対峙したアメリカ軍は、太平洋戦域の各戦場を戦い抜いてきた歴戦の兵士も多かったが、この沖縄の日本軍地下陣地が、今までの戦場で見てきた日本軍陣地における巧妙や複雑さなどの利点を全て兼ね備えていると痛感させられている。砲爆撃に耐える堅牢さだけでなく、陣地は網の目の様な地下坑道で連結されて地下移動による補給や兵員の補充も容易で、防御から攻撃への切り替えもできるなど巧妙な設計となっていた。出入り口は擬装されており、攻撃しているアメリカ軍の後方に不意に出現し、背後から攻撃する事も可能であった。アメリカ陸軍は沖縄の頑強な日本軍陣地を「小ジークフリート線」や「常軌を逸して防衛された陣地」と評している。海兵隊員のある士官は「土に埋まった戦艦のようだった」とも評した。 シュガーローフの戦いで威力を発揮した『反斜面陣地』も多く構築されている。『反斜面陣地』とは、敵と相対する斜面ではなく反対斜面に構築された陣地であり、反対斜面にあるのでアメリカ軍の砲撃では中々破壊されず、アメリカ軍が山頂に達すると、反対斜面の陣地で砲爆撃をやりすごした日本軍が、迫撃砲や擲弾筒や手榴弾投擲で山頂のアメリカ軍を攻撃したり、網の目のように張り巡らされた地下坑道を伝ってきた日本軍が背後から攻撃してくるといったもので、今までのアメリカ軍が経験したことがない戦法であった。シュガーローフでは、巧みな日本軍の陣地構築で「死傷者が続出しているのに日本兵の姿は全く見えない」「丘(シュガーローフ)から弾は飛んでくるが日本兵は全く見えないので、丘を相手に戦ってる気分だった」という状況であった。 第32軍司令部も首里城地下に構築された。八原は司令部構築に莫大な労力と資材を投入することに反対したが、参謀長の長の強い主張により構築が決定された。多数の市民と沖縄師範学校生徒の協力により、1944年12月に構築が始まった司令部壕は総延長1,000m以上、深さ15m~35mで、戦艦の艦砲射撃や爆撃機の1トン爆弾に耐えられる構造で連合軍上陸直前の3月中旬に完成した。後にこの司令部は首里戦線の核心となり、防衛戦の要となったことから、八原は長の軍司令部構築の判断に敬服している。
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