人工妊娠中絶 - 第一波第二波にわたる闘いとは? わかりやすく解説

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人工妊娠中絶 - 第一波・第二波にわたる闘い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 07:50 UTC 版)

フランスにおけるフェミニズム」の記事における「人工妊娠中絶 - 第一波・第二波にわたる闘い」の解説

産児制限避妊人工妊娠中絶)の歴史において最初に重要な役割果たしたのは、無政府主義者ポール・ロバンフランス語版)が1896年結成した、「母性の自由」を擁護する人間再生同盟」である。これは、トマス・ロバート・マルサス人口の「幾何級数増加」を防ぐ方法として禁欲晩婚どの道徳的抑制説いたに対して社会改革運動家フランシス・プレイス避妊による人工的科学的な産児制限主張したことに始まるものであり(新マルサス主義)、ロバンは「母性の自由」、すなわち避妊による産児制限こそ完全な女性解放のための唯一の確実な基礎提供する確信し女性自己統制権利に基づく「母性の自由」によって初め女性服従依存しない男性自己統御も可能となり、この結果、「人間再生」の展望切り開かれると主張した新マルサス主義フェミニストとしてはマドレーヌ・ペルティエネリー・ルーセル挙げられるが、当時はまだフェミニストなかでも孤立した存在であり、女性団体大半中絶のみならず避妊にも反対の立場維持していた。とりわけルイーズ・ワイスは、人工妊娠中絶合法化する1974年ヴェイユ法成立後も、中絶は「男性による征服である」として反対していた。 ネリー・ルーセルは、自ら経験した出産身体的苦痛生命危機から、出産の苦しみ原罪贖いであるとするカトリシズム概念や「女性運命とされるものに憤り覚え女性は、社会的地位婚姻状況、子どもの有無かかわらず自己実現個人としての幸福を追求する権利身体的苦痛拒否する権利があり、避妊女性解放第一歩であると主張し1920年5月6日出産奨励のための「大家族母の日」には(1917年にコレット・レノーとルイーズ・ボダン(フランス語版)が再刊した)『女性の声』紙で、新マルサス主義主張反映して、「同志らよ、ストライキをしよう。腹の底からのストライキをしよう。資本主義に子どもを提供するのはもうやめよう。子どもを搾取対象労働肉体、汚すための快楽肉体変えてしまう資本主義に」と訴え女性たちストライキ呼びかけた。 『人工妊娠中絶人口減少』(1911年)、『中絶』(1913年) などを著した医師ペルティエは、新マルサス主義支持しただけでなく、これを実践していた。1937年脳卒中半身不随になってからは、看護婦家政婦中絶手術を行わせていたが、これが警察の目に留まったのが1937年に兄に強姦された13歳少女の手術を引き受けたときのことである。1939年実際に手術行った看護婦家政婦禁錮刑言い渡されペルティエ執行猶予付き2年禁錮刑判決を受け、同年精神病院死去した人工妊娠中絶1810年刑法典317条で犯罪堕胎罪)とされた。非合法堕胎を行う女性婉曲的に「天使作る女」と呼ばれペルティエ例外的であったわけではなく、すでに30年近く前の1891年に、クレマンス・トマが20年間に数十件の堕胎行ったことを認めトマ事件呼ばれるスキャンダル巻き起こしたトマ手術受けた49人の女性裁判かけられたが、トマだけが12年懲役刑言い渡され49人の女性はみな釈放された。これを受けて同年、ジョルジュ・トユイヨ(フランス語版)ら12人の議員が、堕胎罪判決重罪ではなく軽罪裁判所フランス語版)で下すことを定めた法案提出した1910年にはルイ・バルトゥー(フランス語版法務相と医師元老院議員のオディロン・ラヌロング(フランス語版)が同様の提案をし、新マルサス主義プロパガンダ抑制するよう求めた第一次大戦後議論再燃し国力維持のために出産奨励した政府は、1920年7月31日に「人工妊娠中絶避妊プロパガンダに関する法律施行。これにより、当事者だけでなく、中絶奨励した者や中絶器具販売したに対しては6か月から3年禁錮刑および100~3,000フラン罰金刑避妊プロパガンダ行ったに対して1か月から6か月禁錮刑および100~5,000フラン罰金刑科せられることになった実際1920年法は、性に関する情報提供をすべて禁止し新マルサス主義者の活動阻止することが目的であった。さらに、1923年法により、堕胎重罪から軽罪にされたことで、有罪判決件数激増した1939年法では、警察堕胎取締り専門部門が設置され堕胎だけでなく堕胎試み処罰対象となった1941年9月7日法律によって国家裁判所設置されると、翌42年堕胎罪国事犯とされ、翌43年堕胎行ったマリー=ルイーズ・ジロー(英語版)が斬首刑処された。終戦までに何らかの有罪判決受けた者は15,000人以上に上るこのように第一波フェミニズム端を発する新マルサス主義産児制限運動弾圧され堕胎禁止法強化される一方であった。経口避妊薬解禁されたのは1967年のことである(ヌーヴィルト法(フランス語版))。中絶合法化1975年ヴェイユ法として実現することになるが、これは第二波フェミニズム発端として1960年代後半から1970年代前半にかけて起こった女性解放運動 (MLF)、とりわけカトリーヌ・ドヌーヴマルグリット・デュラスフランソワーズ・サガンアンヌ・ヴィアゼムスキー多数著名人を含む343人の女性人工妊娠中絶合法化求め、自らの中絶経験公にした1971年の「343人のマニフェスト」、ノーベル生理学・医学賞受賞者ジャック・モノーフランソワ・ジャコブ政治家ミシェル・ロカール詩人政治家エメ・セゼール多く知識人協力得て弁護士ジゼル・アリミ初め堕胎対す無罪勝ち取った1972年ボビニー裁判、これら一連の運動牽引したアリミとボーヴォワールの「女性のための選択運動の成果であり、激し攻撃遭いながらも合法化こぎつけたシモーヌ・ヴェイユ厚生相の功績である。 詳細は「343人のマニフェスト」、「ボビニー裁判」、および「ヴェイユ法」を参照

※この「人工妊娠中絶 - 第一波・第二波にわたる闘い」の解説は、「フランスにおけるフェミニズム」の解説の一部です。
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