人工妊娠中絶 - 第一波・第二波にわたる闘い
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「フランスにおけるフェミニズム」の記事における「人工妊娠中絶 - 第一波・第二波にわたる闘い」の解説
産児制限(避妊、人工妊娠中絶)の歴史において最初に重要な役割を果たしたのは、無政府主義者のポール・ロバン(フランス語版)が1896年に結成した、「母性の自由」を擁護する「人間再生同盟」である。これは、トマス・ロバート・マルサスが人口の「幾何級数的増加」を防ぐ方法として禁欲や晩婚などの道徳的抑制を説いたのに対して、社会改革運動家フランシス・プレイスが避妊による人工的・科学的な産児制限を主張したことに始まるものであり(新マルサス主義)、ロバンは「母性の自由」、すなわち避妊による産児制限こそ完全な女性解放のための唯一の確実な基礎を提供すると確信し、女性の自己統制の権利に基づく「母性の自由」によって初めて女性の服従に依存しない男性の自己統御も可能となり、この結果、「人間再生」の展望が切り開かれると主張した。新マルサス主義のフェミニストとしてはマドレーヌ・ペルティエとネリー・ルーセルが挙げられるが、当時はまだフェミニストのなかでも孤立した存在であり、女性団体の大半は中絶のみならず避妊にも反対の立場を維持していた。とりわけ、ルイーズ・ワイスは、人工妊娠中絶を合法化する1974年のヴェイユ法の成立後も、中絶は「男性による征服である」として反対していた。 ネリー・ルーセルは、自ら経験した出産の身体的苦痛や生命の危機から、出産の苦しみは原罪の贖いであるとするカトリシズムの概念や「女性の運命」とされるものに憤りを覚え、女性は、社会的地位、婚姻状況、子どもの有無にかかわらず、自己実現・個人としての幸福を追求する権利、身体的苦痛を拒否する権利があり、避妊は女性解放の第一歩であると主張し、1920年5月6日の出産奨励のための「大家族の母の日」には(1917年にコレット・レノーとルイーズ・ボダン(フランス語版)が再刊した)『女性の声』紙で、新マルサス主義の主張を反映して、「同志らよ、ストライキをしよう。腹の底からのストライキをしよう。資本主義に子どもを提供するのはもうやめよう。子どもを搾取対象の労働の肉体、汚すための快楽の肉体に変えてしまう資本主義に」と訴え、女性たちにストライキを呼びかけた。 『人工妊娠中絶と人口減少』(1911年)、『中絶権』(1913年) などを著した医師ペルティエは、新マルサス主義を支持しただけでなく、これを実践していた。1937年に脳卒中で半身不随になってからは、看護婦や家政婦に中絶手術を行わせていたが、これが警察の目に留まったのが1937年に兄に強姦された13歳の少女の手術を引き受けたときのことである。1939年、実際に手術を行った看護婦と家政婦は禁錮刑を言い渡され、ペルティエも執行猶予付き2年の禁錮刑の判決を受け、同年、精神病院で死去した。 人工妊娠中絶は1810年の刑法典第317条で犯罪(堕胎罪)とされた。非合法で堕胎を行う女性は婉曲的に「天使を作る女」と呼ばれ、ペルティエが例外的であったわけではなく、すでに30年近く前の1891年に、クレマンス・トマが20年間に数十件の堕胎を行ったことを認め、トマ事件と呼ばれるスキャンダルを巻き起こした。トマと手術を受けた49人の女性が裁判にかけられたが、トマだけが12年の懲役刑を言い渡され、49人の女性はみな釈放された。これを受けて、同年、ジョルジュ・トユイヨ(フランス語版)ら12人の議員が、堕胎罪の判決は重罪院ではなく軽罪裁判所(フランス語版)で下すことを定めた法案を提出した。1910年にはルイ・バルトゥー(フランス語版)法務相と医師・元老院議員のオディロン・ラヌロング(フランス語版)が同様の提案をし、新マルサス主義のプロパガンダを抑制するよう求めた。第一次大戦後に議論が再燃し、国力維持のために出産を奨励した政府は、1920年7月31日に「人工妊娠中絶と避妊プロパガンダ」に関する法律を施行。これにより、当事者だけでなく、中絶を奨励した者や中絶器具を販売した者に対しては6か月から3年の禁錮刑および100~3,000フランの罰金刑、避妊プロパガンダを行った者に対しては1か月から6か月の禁錮刑および100~5,000フランの罰金刑が科せられることになった。実際、1920年法は、性に関する情報提供をすべて禁止し、新マルサス主義者の活動を阻止することが目的であった。さらに、1923年法により、堕胎が重罪から軽罪にされたことで、有罪判決の件数が激増した。1939年法では、警察に堕胎取締りの専門部門が設置され、堕胎だけでなく堕胎の試みも処罰の対象となった。1941年9月7日の法律によって国家裁判所が設置されると、翌42年に堕胎罪は国事犯とされ、翌43年、堕胎を行ったマリー=ルイーズ・ジロー(英語版)が斬首刑に処された。終戦までに何らかの有罪判決を受けた者は15,000人以上に上る。 このように第一波フェミニズムに端を発する新マルサス主義の産児制限運動は弾圧され、堕胎禁止法は強化される一方であった。経口避妊薬が解禁されたのは1967年のことである(ヌーヴィルト法(フランス語版))。中絶の合法化は1975年にヴェイユ法として実現することになるが、これは第二波フェミニズムの発端として1960年代後半から1970年代前半にかけて起こった女性解放運動 (MLF)、とりわけ、カトリーヌ・ドヌーヴ、マルグリット・デュラス、フランソワーズ・サガン、アンヌ・ヴィアゼムスキーら多数の著名人を含む343人の女性が人工妊娠中絶の合法化を求め、自らの中絶経験を公にした1971年の「343人のマニフェスト」、ノーベル生理学・医学賞受賞者のジャック・モノー、フランソワ・ジャコブ、政治家のミシェル・ロカール、詩人・政治家のエメ・セゼールら多くの知識人の協力を得て、弁護士ジゼル・アリミが初めて堕胎に対する無罪を勝ち取った1972年のボビニー裁判、これら一連の運動を牽引したアリミとボーヴォワールの「女性のための選択」運動の成果であり、激しい攻撃に遭いながらも合法化にこぎつけたシモーヌ・ヴェイユ厚生相の功績である。 詳細は「343人のマニフェスト」、「ボビニー裁判」、および「ヴェイユ法」を参照
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