五方面作戦の背景と計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 05:23 UTC 版)
「通勤五方面作戦」の記事における「五方面作戦の背景と計画」の解説
第二次世界大戦後の高度経済成長と、地方農山村から東京圏への人口大移動に伴う都市部の過密化により、東京近郊路線の通勤時間帯における混雑は「通勤地獄」と称されるほど深刻なものになっていた。一例として、定員に対する乗車人員数で表される混雑率は1960年(昭和35年)度に下記のようになっていた。 総武本線:312% 東北本線:307% 中央線快速:279% 常磐線:247% それまでも国鉄は72系に代表される旧形国電や客車列車を、高性能で収容力が大きく小回りの利く新性能電車(101系・113系など)に置き換え、列車本数を増やすことで混雑緩和を図っていた。しかし、輸送量の増加に見合うものではなく、混雑を解消するには線増を伴う抜本的な輸送力強化が必須とされ、1960年代に入ると毎年のように監査報告書でも指摘されていた。 国鉄の路線図を見ると、東京都心への輸送は南西から時計回りに東海道本線・横須賀線、中央本線、高崎線・東北本線、常磐線、総武本線が担っていることが分かる。これら5方向へ放射状に伸びる路線を複々線化するなどして抜本的な輸送力増強策を計画・実行したことが「通勤五方面作戦」と呼ばれるゆえんである。 また運転業務面においても、増発に次ぐ増発を行っても当時の輸送人員はそれ以上に増加していたため、このプロジェクトの早期完成によって混雑緩和ならびに列車増発が可能になるため、運転担当者も早期の完成を強く国鉄当局に要請した。決め手となったのは三河島事故および鶴見事故であり、いずれも過密ダイヤが被害を大きくしたことが問題視された。このため、鶴見事故直後の1963年11月には安全策として線路増設を促進する旨の意思表明が総裁から出されている。 五方面作戦は1965年度から1971年度末までで計画された第三次長期計画で重点投資対象であった通勤投資の中核をなしている。しかし、1965年当時の混雑率予想では5路線の線増を実施しても集中を続ける人口の前には、混雑率を当時の状況よりやや抑える程度の効果しか持っていないと考えられた。なお、下の表における「現状」と「工事を実施した場合」の差、「工事を実施した場合」と「工事を実施しない場合」の差は、必ずしも国鉄の輸送力増強工事の成果を意味しないことに注意が必要である。 「混雑率予想(目標:1972年3月)」(単位%)現状工事を実施した場合実施しない場合中央快速線284 270 370 中央緩行線208 180 270 総武線312 239 445 京浜東北線(南行)282 192 357 山手線(外回り)272 171 326 南武線284 257 461 横須賀線264 200 486 東海道線171 207 367 このように、需要追従型となった背景は、十河信二国鉄総裁時代以前、第二次五カ年計画までの、通勤投資への消極姿勢があり、国鉄として首都圏への人口集中への対応が遅れたからである。十河の跡を継いだ石田礼助は五方面作戦の計画を指示した総裁ではあるが、十河時代には国鉄監査委員を務めており、下記のように通勤投資には消極的であった。 次に通勤対策についても述べておかねばなるまい。今思うに、これは大変な考え違いだった。当時、私は、国鉄が通勤対策に巨額の資金を注ぎ込むことには、消極的意見だつた。つまり大都市の通勤輸送は国鉄も一翼を担つているが、本来、政府あるいは東京都・大阪市などの大都市当局がイニシヤティヴをとり住宅政策とも関連させて取組むべき問題であつて、国鉄が独りでやる問題でも、またやれる問題でもない。国鉄は、やはり、他に担い手のない幹線輸送の強化に重点をおくべきで、投資もそれに従つて進めるのがよいというのが私の考えだつた。この意見は、国鉄の投資計画にも反映され、幹線重点輸送というのが、国鉄の一貫した大方針になり、通勤対策については比較的小規模な投資にとどまつた。だから、現在の通勤地獄については、私も大いに責任があると思う。しかし総裁に就任して、新宿や池袋の混雑をまのあたりにみて、つくづく自分の不明を覚つた。もはや政府の仕事とか、都の仕事とか言つている暇はない。放つておけば、大変なことになる。何はともあれすぐに手を打たねばならない、ということで前非を悔い改め、遅まきながら通勤地獄の緩和を大目標に今賢命の努力を払つているような次第だ。 — 石田禮助「充実した6年3ヵ月」『日本国有鉄道監査委員会10年のあゆみ』1966年12月 石田は通勤投資を語る際「降りかかる火の粉は払わねばならぬ」と例えたが、国鉄旅客局の芝逸朗によれば、その言葉こそが、開発先行型ではない、需要追従の思想を体現したものだった。五方面作戦においても話は同様であった。なお、第三次長期計画で目標とされた首都圏通勤路線全体の平均混雑率は240%である。また当初は、第三次長期計画の最終年である1971年度末までに、5路線とも一定の区間の線路増設を終えるように計画された。
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