二国(新国立劇場)問題
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「佐々木忠次」の記事における「二国(新国立劇場)問題」の解説
第二国立劇場(仮称)に調査費という名目で予算がついたのは1971年(昭和46年)。当初は佐々木も期待し、朝日新聞1971年(昭和46年)3月20日夕刊に「大変喜ばしいニュース」と書いている。文化庁から頼まれ、準備の専門委員にもなっている。 文部科学省公式の「第二国立劇場(仮称)の設立準備」については次の通り。「(前略)オペラ、バレエ、ミュージカル、現代舞踊、現代演劇等の現代舞台芸術の振興及び普及を図ることを目的とする第二国立劇場(仮称)の設立に対する要請が、国立劇場設立当初から関係者の間で起こっていた。この要請にこたえるため、文化庁は四十六年以来設置準備のための調査を実施するとともに、四十七年十二月第二国立劇場(仮称)設立準備協議会を発足させ、基本構想の検討を開始した。専門家による検討の結果、五十一年五月には、同協議会で基本構想案が承認された。」 最初に紛糾したのはホールの座席数だった。佐々木は、海外からの招聘が必要な場合、膨大な費用が必要になるため、少なくても2000席を超える座席数を要望していた。しかし1975年8月の草案では2000席、さらにはそのわずか2か月後には1600席になった。のちに1800席で最終決定となったが、佐々木を含め反対した者は専門委員からはずされた。政治力に長けた劇団四季の浅利慶太が、ミュージカルに適した1600席をごり押ししたと言われたが、本人は否定している。しかしながら黛敏郎も「ミュージカル派の意向が優先された結果」と発言するなど議論はくすぶっていた。結局座席数が1800席となった理由は不明である。参考として、清水裕之(名古屋大学名誉教授・岡崎市民会館芸術監督)によると、当時清水は文化庁文化普及課の非常勤職員として第二国立劇場の事務室に勤務しており、建築計画面の資料作りに携わることができたとのことである。「文化庁が諮問した委員会での大劇場の客席数の結論は、質の高い作品を良い鑑賞条件ものとで見てもらうために、客席数を1600席に押さえるというものであった。しかし、海外からオペラの引っ越し公演を行っている興行側からは、それでは採算がとれない、少なくとも客席は2000席を超える客席が必要だというような議論が起こり、新聞や雑誌を巻き込んだ大論争になった。筆者は建築設計の立場から、2000席を超える劇場では舞台から遠すぎる席が増えすぎて鑑賞環境には無理があること、ドイツの劇場では2000席以下のオペラ・バレエ劇場が多くあり、その鑑賞条件はよく、また公共団体の支援がしっかりしているため、非常に低料金で鑑賞できることの素晴らしさを体感していたため、民間ベースの興行収入を基本とする論争にはついてゆけなかったことを鮮明に覚えている。」すなわち、文化庁は各国を代表する3000席規模のホールではなく、ドイツの地方都市の中規模歌劇場を手本としていたこと、ドイツの歌劇場では演奏家は公務員として契約するが、日本はドイツと同じ費用を使っても演奏家ではなく天下り職員の人件費に消えていくので「公共団体の支援がしっかりしている」とはとても言えないこと、したがって興行収入を基本としないと民間の興行が成立しないことを認識していなかったことがわかる。 文部科学省公式の「第二国立劇場(仮称)の設立準備」について「用地は、五十二年十二月文化庁から大蔵省に対して通商産業省東京工業試験所跡地の提供方を依頼したのを受けて、五十五年五月には、国有財産中央審議会において同跡地を用地として利用する旨の答申がなされた。ところが、同跡地が、現代舞台芸術のための劇場の用地として適当かどうか等について一部に議論が起こり、結局、この議論の収束を待って劇場建築のための設計競技が国際的な規模で実施され、入賞最優秀作品を発表し、基本設計に入ったのは、六十一年のことであった。」新宿の中心部から離れすぎており、文化の中心としてふさわしくないというと議論が沸騰したのである。なお、当初は「駒場跡地」であったものが二転三転したようである。 1971年 - 1992年の建設にあたって議論が紛糾している間、準備費用だけで150億円にのぼった。佐々木は「民間ならすでに劇場が建ってもおかしくない金額」と言った。組織が文化庁(のちに一部独立行政法人)、特殊法人(のちに公益財団法人、一般財団法人)、一般の株式会社等の法人へと何重にも複雑な業務委託が行われており、建物建設も、公演も、何もしなくても中間マージンがかかる仕組みになっている。しかも各組織は天下りポストとなっており、実態は業務委託の利ざやが天下った元公務員の人件費に充てられていることに他ならない。もとは税金なのだから、説明責任が求められよう。 欧米の劇場であれば、インテンダント(芸術総監督)が全責任を負うことになり、それに対応できるだけの経験を積んできた芸術家がその任にあたるが、二国(新国立劇場)では理事長と芸術監督が別々に存在し、いずれがインテンダントなのか責任の所在が曖昧である(さらには評議員会まである)。遠山一行と佐々木との間で激しい意見の応酬がされているが、副理事長の遠山が責任を負っておらず、芸術監督の畑中良輔が全責任を負っているという遠山の意見は無理がある。しかも理事長・理事・評議員の大半は元役人か財界人であり、芸術家は少数である。責任をとれる役目でないのなら、理事会・評議員会は不要であろう。(肩書はいずれも当時) 新国立劇場の常設の団体は新国立劇場合唱団と新国立劇場バレエ団のみである。オペラ団体が合唱団のみのため、出演者は演奏会ごとに契約して出演料を得るしかない(なお、合唱団員も1年契約である)。国立劇場という名の貸しホール同然である。バレエ団はさらに複雑で、常設とは名ばかりで、実態は1年ごと、演目ごとに市中のバレエ団のダンサーを一本釣りして「新国立劇場バレエ団」と称しているのみである。 二国(新国立劇場)でわざわざ聴衆に人気があるプログラムを上演するのは民業圧迫である。しかも税金で補填される分、民間よりチケットは安くできる。国立劇場でなければ上演しにくいプログラムを組むか、民間を含めあまねく補填をするかしなければ、バレエ界の発展は望めない。
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