二回目の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 04:52 UTC 版)
アテナイ軍が故郷に向かう航海の準備を行っていた8月28日、月食が起こった。トゥキディデスによると、ニキアスは非常に迷信深い人物であり、神官達にどうすべきかを尋ねた。神官達は27日間出帆を待つべきと伝え、ニキアスはこれを受け入れた。シュラクサイはこの機会を利用し、76隻をもって湾内の86隻のアテナイ海軍を攻撃した。アテナイ海軍は敗北し、エウリュメドンは戦死した。多くのアテナイ船はギュリッポスが待ち受ける岸に押し込まれた。ギュリッポスは自ら何人かの乗員を殺し、着岸した18隻を鹵獲したが、アテナイ軍とエトルリア軍がギュリッポスを後退させた。 アテナイ軍は今や悲惨な状態にあった。9月3日、シュラクサイは湾の入り口を完全に封鎖し、アテナイ艦隊を閉じ込めた。街の外では、アテナイ軍は傷病兵のために城壁で囲まれた小さな砦を建設し、残りの兵は最後の戦闘に望んだ。9月9日、最後の海戦が行われた。アテナイ艦隊はデモステネス、メナンドロス、エウシデムスに率いられ、シュラクサイ艦隊はシカヌス、アガトクレスが両翼を、中央をコリントスのピテンが率いていた。両軍ともに戦力は100隻前後であった。 アテナイ艦隊は密集しており、機動を行う十分な空間がなかった。あちこちで船同士の衝突が起こり、有利な位置を占めたシュラクサイ船はアテナイ船に簡単に衝角攻撃を実施できた。両軍共に弓、投槍の攻撃を行った。シュラクサイ船は甲板を獣皮で覆っており、アテナイの鉤縄を跳ね返した。 それでもしばらくは戦闘の勝敗は明確で無かったが、最終的にはシュラクサイ艦隊はアテナイ艦隊を海岸に追い詰め、乗員は脱出して自軍の野営地に逃げ込んだ。両軍ともにおよそ半数の船を失っていたために、デモステネスは再度乗員を乗船させて突破を試みようとし、ニキアスもこれに合意した。しかし兵士は恐れてこれに従わなかった。このため、陸路で脱出することとした。ヘモルクラテスはアテナイ軍に対して、内部にスパイがいること、内陸部の道路は封鎖されていること、従って脱出しないほうが安全であるとの偽情報を流した。アテナイ軍が躊躇している間に、ギュリッポスは実際に道路を封鎖したが、シュラクサイ軍が海岸にあったアテナイ船を焼却したために、内陸に逃れる以外の方法は無かった。
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